#Marx200 リポート/江原慶氏/若手研究者が国際カンファレンスに参加する意義

ドイツでマルクス生誕200年を記念したカンファレンス「MARX200: Politics - Theory - Socialism」が開催されました。単著『資本主義的市場と恐慌の理論』(日本経済評論社)を4月に上梓されたばかりの若手研究者、江原慶さんにカンファレンスの様子とご自身の研究などについてお伺いしました。

 ベルリンのカンファレンスに参加されたそうですね。いかがでしたか。どのようなカンファレンスだったのでしょうか。

 日本ではあまり宣伝されていませんでしたが、大阪市立大学の斎藤幸平さんから教えてもらって参加することになりました。最初は渋っていたのですが、海外のマルクス関連シンポジウムは日本のとは雰囲気が全然違う、実際に行ってみるべきだと熱弁されて、説得されてしまいました。
 行ってみると、確かに違う雰囲気を感じました。何よりまず、参加者は900人以上と非常に盛況で、その上参加応募が殺到して応募を締め切らざるを得なかったと、主催者の方が言っていました。実際、マイケル・ハートのような有名人が登壇するメインイベントだけでなく、分科会でも立ち見が出るほどでした。私が報告した”Marx in Japan”セッションにも、用意された椅子に座り切れない人がいました。日本からの参加者は斎藤さん、駒澤大学の明石英人さんと私の3人だけでしたが、対照的と言っていいほど、海外での日本への関心は高いと感じました。
 参加者の年齢層はかなり若くて、かつジェンダーバランスがとれています。報告のバラエティも豊富で、日本だとどうしても経済学が中心になりますが、このドイツのカンファレンスでは、環境問題から実際の左派的な活動に至るまで、様々なテーマが扱われていました。経済学プロパーのセッションはむしろ人気がなくて、経済学をやっている人間としては少し寂しい思いがするとともに、もっと経済学の意義を伝えていかなければならないという気になりました。

 にぎやかな様子が目に浮かぶようです! 江原さんは、今までもこうした海外のカンファレンスへの参加経験があるのでしょうか。

 私は割と伝統的な方式の国内培養型でして、海外活動の実績はほとんどありません。去年、World Association for Political Economyという学会のモスクワ大会に参加したのが初めてで、今回が2回目です。それまでは、英語で報告したいときは、経済理論学会など、国内で開催される学会の英語セッションとかでやってました。

 なるほど。後になって申し訳ないのですが、江原さんの経歴を教えて頂けますか。

 1987年生まれで、東京大学経済学部を卒業した後、そのまま同じ大学の経済学研究科に進学しました。博士号を取った後は、1年間アルバイトなどをやって、その後母校の助教に採用してもらいました。しかしそれは有期雇用だったので、就活を続けまして、昨年から大分大学経済学部で働けることになりました。
 マルクスに関わることになったのは、学部2年生の終わり頃です。当時の東大経済学部では、2年生の冬学期に駒場で「専門1」という基礎科目を一通り履修するのですが、そのとき一番成績が悪かったのが「経済原論」(マルクス経済学の理論科目)で、それがもっとちゃんと勉強してみようという動機になりました。
 もっとも私が専門にしているのは厳密にはマルクス研究ではなくて、『資本論』を基礎としながら、そこから作り上げられてきた経済学の理論研究です。マルクス経済学というと、マルクスの思想や理論を扱っていると思われがちですし、それは広い意味では別に間違っていないのですが、「経済学」の方にウェイトがあるというか。

 マルクス研究は、マルクスの思想全般について、マルクス経済学研究は、その中でも経済学に特化しての研究ということでしょうか。

 この辺りの区別には踏み込むとヤブヘビになるのであまり深入りしたくないのですが(笑)、どちらかがどちらを包含するといった関係ではなく、基本的に別のアプローチなのだと思います。今回の滞在中に斎藤さんがベルリンフィルに誘ってくださったんですが、そのさい、楽譜を交響曲に起こすように、我々はマルクスのテキストから意味を引き出して論文を書くんだといった主旨で、斎藤さんがマルクス研究をフィルハーモニーにたとえてたんですね。私は音楽はさっぱりですが、敢えてそれに即して言うなら、マルクス経済学の研究にはそういう意味での楽譜はなくて、即興のジャズのような音楽にたとえられるのかもしれません。
 ただ、マルクス経済学もマルクスを基礎としている以上、マルクス研究をないがしろにしてよい道理はないので、門外漢ながら眺めて勉強させてもらっている、といった感じです。

 ありがとうございます。カンファレンスに話を戻しますね。今回はドイツが会場でしたが、言語は何が使われていたのでしょうか。

 ドイツ語が中心のカンファレンスでしたが、英語で聞けるセッションが必ずどこかで行われていて、非ドイツ語話者も退屈しないよう配慮されていました。大きめの会場ではドイツ語と英語の同時通訳が準備されていました。

 江原さんは、英語は学会で問題なく使用できるレベルということですよね。少し話がそれますが、日本は英語教育についての議論が耐えません。実際に長く勉強されていて、読み書きに不自由がない方でも聞き取りと発話は苦手、という場合もあります。江原さんはどのように勉強されたのでしょうか。また、ドイツ語はいかがでしょうか。

 あまり特別なことはしていませんが、英語の勉強はずっと好きでした。駅前留学をのぞき(笑)、留学経験はありません。中学3年から高校1年にかけて親の転勤で北京に1年間いて、インターナショナルスクールに通っていたので、そこでの授業は全て英語でした。ちょうどSARSが流行った時期で、休校になったので、100日くらいしか通いませんでしたが。
 ドイツ語は全くからきしです。マルクスの著作の原書に当たらないといけないときは、英語版と日本語版と独英辞典を全部使って読みます。

 江原さんご自身のお話をお伺いしてきましたが、ご存じの範囲で、同世代の研究者の方の国内での研究や海外の研究との接触の状況について教えてください。ただ、分野によっても傾向がことなると思いますので、ご専門の周辺のあたりについてということになると思いますが、いかがでしょうか。

 同世代の研究者について、正直私はよく知らないのです。大学院在籍時も、同期は一人もいませんでしたし。そういう狭い範囲の知識しかありませんが、若い国内の研究者が海外で活動しようと思うと、全般的にハードルが高くて、それに積極的な人は多くないという印象です。マルクス経済学には国内の膨大な先行研究があって、学生のときにはまずそれを消化しなければなりません。大学院を終えた後、アカデミアで就職せずに海外に行くルートは限られており、ノウハウもほとんど継承されていません。就職できたらできたで、大学の仕事は日増しに忙しくなってきており、海外での研究活動まで手が回らないということになりがちです。要するに、相当やる気を出さないといけなくて、それ自体が大きな障壁になっていると思います。
 しかし、海外との交流は以前にも増して重要になってきています。グローバル化は事実として進行していて、したがって資本主義分析もグローバルになされなければなりません。それにあたって、海外の人々がどういうことに関心を持っているのか知ることは有用です。また、前に触れたように日本に対する海外の関心は高いので、それにこちらから応えてあげる必要もありますよね。
 もとより、海外での仕事には、日本でのそれとはまた違った楽しみがあります。今回、日本の帝国主義論について話したところ、参加者からはインドやアメリカといった、各地の議論について聞くことができました。単純に、異国の空気を吸いに行けるというだけでも、海外に行ってみる価値があります。ソ連崩壊後に育った私たちにとっては特に、「ベルリンの壁」や東西ベルリンの街並みの違いを実際に目にするのとしないのとでは、冷戦期に対するリアリティがやっぱり違ってくるでしょう。ベルリンフィルに行ったりとか(笑)、そういうアフター5のエンタテインメントも魅力的ですし、必要です。海外活動のハードルは確かに高いのですが、経験をシェアして助け合いながら、なるべく多くの 日本の研究者とそれを乗り越えていければと思っています。

 ありがとうございます。ただ海外にでればよいわけではもちろんありませんが、優秀な研究者が国際的な研究の場に参加することで得ることが大きいことがよくわかりました。ポスドク問題や人文学・社会科学研究の軽視など、国内の研究状況は決して恵まれてるとはいえない状況の中で、皆さんががんばっておられること、そして江原さんたちのような研究者がでることが素晴らしいなと思っています。蛇足ですが「厳しくても良い研究者でるなら今の環境でもOK」ということではなく改善は必要だと思っています。私はアカデミック内の人間ではないので、それはステークホルダーとして協力できることに取り組みたいと思っています。
 最後に江原さんの今後の研究の展望など教えてください。

 大学院のときからやっていた研究は、本の出版でとりあえず一区切りになるので、次は貨幣論とか、『資本論』でいうと冒頭部分にあたる領域をやりたいと思っています。マルクス経済学でずっと問題になっている、不換制を含めた原理的な貨幣の理論です。仮想通貨の登場などを受けて、貨幣制度の構造も揺さぶられているので、その辺りの現実を展望できるような抽象理論を考えたいです。
 あとはこれまで書いたものを、英語でもう一回考え直して、海外展開をさらに充実させていきたいと考えています。その過程でどこがうまく通じないのか、あるいはどこが煮詰まっていないのか、新しい問題が見えてくると思うので、それをきっかけにして研究の中身を向上させていこうと思います。

ありがとうございました!

インタビュアー 小林えみ

江原慶(えはら・けい) 大分大学経済学部准教授。1987年生まれ。東京大学大学院経済学研究科博士課程修了(博士(経済学))、東京大学大学院経済学研究科助教等を経て現職。著書に『資本主義的市場と恐慌の理論』(2018年、日本経済評論社)。



マルクス生誕200周年コメント集「いま、マルクスを読む意味」(3) #Marx200

掲載は氏名の50音順です。

編集者 林 陽一(はやし・よういち)
「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」。
あまりにも有名なこの句から始まる『共産党宣言』を著したとき、マルクスは29歳、エングルスは27歳の若者であった。
歴史や社会の仕組みを、丸ごと解き明かそうとするその情熱と、思想的スケールの大きさには、ただただ圧倒されるばかりである。
マルクス主義なんてうさん臭い」「今さら役に立たない」などと斬って捨てるのは簡単だ。しかし、そもそも「役に立つ・立たない」という基準でマルクスを測ることが間違っている。彼の言葉は紛れもなく「世界を変えた言葉」であり、人類にとっての世界遺産なのである。モン・サン・ミシェル万里の長城を観光するのとまったく同じように、私たちはマルクスを「体験」すべきだと思う。
 長大な主著『資本論』に臆してしまう人には、比較的読みやすい『共産党宣言』や『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』を推す。

法政大学経済学部 原 伸子(はら・のぶこ)
マルクスからフェミニズムへ:「導きの糸」としての経済学批判」
 私の研究者としての出発点は、資本論形史であり、とくに1861年から63年に執筆された「23冊のノート」でした。当時のソ連の雑誌『経済の諸問題』や『哲学の諸問題』は、新MEGAに含まれる『資本論』草稿、とくに第1部「資本の生産過程」の相対的剰余価値論が現行『資本論』より約100ページも分量が多いことを明らかにしていました。私は、ドイツ語版より先に出版されるロシア語版『マル・エン著作集』第47巻を読むために、さらにロシア語の勉強を続け、修士課程1年の夏休みに第47巻を読了しました。1861−63年草稿には、『剰余価値学説史』として知られる当時の経済学説の徹底的な批判と、『資本論』に結実する経済学草稿がともに含まれています。マルクスの「経済学批判」の方法は、私にとっては、現代と対峙するための方法です。現在、私がテーマとしている「フェミニスト経済学」の研究もまた、ケアの理論の構築にさいしての、現在の主流派経済学批判の「導きの糸」になっています。

ジュンク堂書店難波店店長 福嶋 聡(ふくしま・あきら)
 書店の店頭で、「AI(人工知能)」の文字が踊る。本の帯には「AIは、早晩全人類の能力を上回る」との託宣が見える。そして「人間の仕事は、すべてAIに奪われる」と。
 ぼくが、かつて第一巻の半分くらいで挫折したマルクスの『資本論』を、再び最初から読み始めたのは、その書店風景に震撼した時だった。朧げな記憶と、マルクス経済学についての断片的な知識が、ぼくに次のような疑問を抱かせたのだ。
 “剰余価値を生み出す労働者を機械に代替させて、資本主義が、現在の経済構造が維持できるのか?”
 マルクスが資本主義の秘密を徹底的に洗い出す仕事にその一生を費やしたのは、機械が労働者になり替わり、富が一部の資本家にどんどん集中していく、産業革命後の時代においてであった。今日、同型のプロセスが、凄まじいスピードで進行しているのではないか?ぼくたちに身近な「出版不況」も、マルクスが同時代に発見した「恐慌」と同質だ。
 マルクスは、古くて、新しい。

NPO法人ほっとプラス代表理事 藤田孝典(ふじた・たかのり)
 2018年の現代日本でもワーキングプアを中心とした貧困、格差が社会的な課題となっています。それに伴い、貧困を表す言葉が言論でも増えています。ホームレス、ネットカフェ難民、子どもの貧困、女性の貧困、下流老人…。さらに貧困や格差を表す数字も深刻です。相対的貧困率は15,6%になり(厚生労働省2015)、ワーキングプアの割合も13,3%と働いている人々の8人に1人は貧困です(OECD2016)。だからこそ、生活相談や労働相談も後を絶ちません。要するに「働いても貧困や生活苦から抜け出せない」「8時間働いても普通の暮らしが送り続けられない」という事態が社会に広がっているのです。
 マルクスはこれらの人々や労働者が陥る事態を構造的に世界で初めて分析し、資本主義の宿命に立ち向かい、変革していくことを行動でも示してくれた人でした。私たちは残念ながら、今すぐにこの資本主義体制から逃れることはできません。資本主義とはいかなる欠陥や暴力を抱えているのか、生きていくうえでマルクスに触れることは必須だと思います。少なくともわたし自身はマルクスから多くの知見や勇気を得ています。一緒にマルクスと社会を探求してください。

ヨーク大学准教授 Marcello Musto(マルチェロ・ムスト)
The MEGA² make it possible to say that, of the biggest authors of political and economic thought, Marx is the one whose profile has changed the most in recent years. Some recently published volumes of this edition highlighted that Marx was widely interested in several other topics that people often ignore when they talk about him. Among them there are the potential of technology, the critique of nationalism, the search for collective forms of ownership not related to state control, and the need for individual freedom in contemporary society: all fundamental issues of our times.
Research advances suggest that the renewal in the interpretation of Marx’s thought is a phenomenon destined to continue. He is not at all an author about whom everything has already been said or written, despite frequent claims to the contrary. Many sides of Marx remain to be explored.
Moreover, returning to Marx is not only still indispensable to understand the dynamics of capitalism. His work is also a very useful tool that provides a rigorous examination addressing why previous socio-economical experiments to replace capitalism with another mode of production failed. Many of those who will be reading his books today, once again or for the first time, will observe that many of Marx’s analyses are more topical today than they have ever been.
 MEGAのおかげで、偉大なる政治思想および経済思想家のなかでも、マルクスは近年その人物像がもっとも変わった一人だといえるだろう。なかでも最近刊行された数巻は、マルクスについて語る際、しばしば無視されてきたような数々のテーマについて、マルクスが広く関心を寄せていたことを明らかにしている。それらのテーマのなかには、テクノロジーのポテンシャルやナショナリズムへの批判、国家統制とは結びつかない共同的な形態の所有の探究、そして現代社会における個人の自由の必要など、私たちの時代のあらゆる重要問題がある。
 研究の進展が示唆しているのは、マルクスの思想解釈の刷新は、これからも続いていく現象であるということだ。彼は、頻繁に反論がなされてきたにもかかわらず、これまで論じられてきたことに尽きるような著作家ではないのである。
 さらに、マルクスへの回帰は、資本主義のダイナミズムを理解するのにいまだ不可欠であるに留まらない。彼の仕事はまた、資本主義を別の生産様式に置き換えようとするこれまでの社会経済的な試みが失敗したのはなぜかを問う、厳密な試験を与える非常に有用なツールでもある。今日、彼の著作を読もうとする多くの人々は、かつてマルクスを読んだことがある人であれ、初めて読むのであれ、マルクスの分析の多くがかつてなく時節に適しているのに気づくことだろう。

立命館大学専門研究員 百木 漠(ももき・ばく)
 マルクスの偉大さは資本主義の本質をずばりと言い当てたことにある。すなわち、資本とは無限に自己増殖する価値の運動(G−W−G')であり、資本主義とはそのような資本を中心にして形成される経済−社会のあり方である、と。一定の貨幣(G)を労働力という特殊な商品(W)へ投資し、その労働力が生み出す剰余価値によって貨幣の増殖(G')が成し遂げられる。この分析は、今日の資本主義にもそのまま妥当するものであり、全く古びていない。
 こうしたマルクスの洞察は、われわれに資本主義の〈外〉に出て思考することを可能にしてくれる。通常の経済学は、資本主義の内部においていかに最善の状態を実現するか、を考える。マルクスは違う。そもそも資本主義というシステムそれ自体を疑い、問い直そうとする。資本主義とはそもそも何なのか、それは果たして普遍的な経済−社会の仕組みなのかと。その思考がさらに、資本主義とは別の経済−社会への構想を可能にするのだ。

埼玉大学大学院人文社会科学研究科准教授 結城剛志(ゆうき・つよし)
「萎縮する社会の中で」

いま、大学という組織の中にいると、やれ組織改革だ、入試改革だと、騒がしい。大人たちはずいぶんと自分たちがやってきた教育に自信がないようである。では、大学の組織や制度はなぜ変えなければならないのだろうか。直接には、国が言ったから、あるいは世間がそう言っているから、というものである。驚くなかれ、紛れもなくそれが理由である。
 私がマルクスから学んだことは「根本的な正しさとは何か」を問う姿勢である。たしかに、国が言ったことは事実だし、世間さまもそのように仰るのであろう。しかしそこに正しさはあるのだろうか。大学は国から税金をもらっている以上、国に対して何かしらの言い訳をしなければならない。国は国民に対して何かをしているという感じを出さなければならない。言い訳や釈明のための演出に追われ、教育そのものが議論されることはなくなっている。
 朝日新聞に掲載された「火垂るの墓」(高畑勲監督)に関する記事も印象的である。「我慢しろ、現実を見ろ」。生きるためには屈しなければならない。それが現実だ、と。世間はそう言うのだそうだ。たしかに、生きるだけならそれでいい。自分を曲げて生きればいい。しかし、死んで正しさを守る道もある。少なくとも、清太と節子は自由だった。
 マルクスは根本的な正しさを求めた。当時の権威たる国と王、教会と神学、社会主義と経済学を、生活の糧を失うことを恐れずに批判した。そこに残ったのは、ただ正しさだけだった。ばかな生き方と言われるかもしれないし、そんな英雄的な生き方を誰もができるわけではないが、清冽さ・凄烈さに人は惹かれる。残るのはそういったものである。

マサチューセッツ大学アマースト校経済学部准教授 吉原直毅(よしはら・なおき)
 人類文明と地球環境のサステイナビリティ問題に直面している現代において、マルクスを読む意義の1つは、市場制度と資本制経済システムを概念的に区別する視座を学ぶことであろう。市場的交換行為や社会的分業の生成は有史以来の観察事象であるが、市場原理が共同体的原理に優越して社会システムの一元的な支配的原理になるのは、資本制的社会のみである。近代リベラル思想や新古典派経済学は市場と資本制を同一視する事で、市場的交換行為や社会的分業の普遍性を資本制経済システムの普遍性へと錯視する理論体系を構成し、それが現代社会の支配的イデオロギーと化している。しかしマルクスに学ぶことによって、資本制的社会が歴史的な存在に過ぎず、現代の我々が囚われている認識や思考法自体が資本制下の固有な特性に過ぎないと再確認できる。それは現代世界の極端に進行した貧富の格差や、搾取および社会的・経済的抑圧、サステイナビリティ問題などの危機的事象に対しても、我々をして悲観主義に陥ることなく究極的には楽観主義的であり続けさせる知的源泉である。


マルクス生誕200周年コメント集「いま、マルクスを読む意味」(2) #Marx200

掲載は氏名の50音順です。

大阪市立大学准教授 斎藤幸平(さいとう・こうへい)
 高校生の頃、受験勉強をして大学に入って4年のモラトリアム期間を過ごした後に、どこかの企業で65歳まで働くという目の前に敷かれたレールに漠然と違和感を抱いていた。とはいえ、大した代替案も浮かばずに、結局同級生たちと同じように大学に進学することとなった。だが、大学で勧誘された(怪しい)勉強会に参加し、そこで『ドイツ・イデオロギー』の有名な一節に出会ったことで、転機が訪れる。「私がまさに好きなように、朝には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして 食後には批判をするということができるようになる。」社会主義というと漠然と暗いイメージを持っていたが、ここで描かれている牧歌的だが具体的な将来社会像は、今自分たちが暮らしている社会のあり方が絶対的なものではないということを初めて私に実感させた。もちろん、現代資本主義へのオルタナティブを思考するのは依然として不可能なほどに困難なままである。だが、マルクスは少なくとも資本主義が唯一永遠のシステムではないということを、この社会で苦しみもがく私たちに教えてくれるのだ。

フリーランス編集者&ライター 斎藤哲也(さいとう・てつや)
 平成が始まった1989年は東西冷戦が終結し、マルクス離れを決定づけるような年だった。
 その後のありさまはご覧のとおりだ。派遣社員は使い捨てられ、ブラック企業の大社長がカリスマ経営者としてもてはやされる。生活保護にはバッシング、貧困は自己責任。国民国家とは名ばかりで、どこの国でも分断は深まるばかり。それでも資本は止まらない。
 これをマルクスを読まなくなったツケとするのは言いすぎだろうか。
 マルクス生誕200周年は、奇しくも平成最後の1年と被る。そろそろマルクスを呼び戻す頃合いだろう。

日本女子大学人間社会学助教 佐々木雄大(ささき・ゆうた)
「人文学徒マルクス

 『資本論』第一巻が放つ魅力は価値形態論や剰余価値論、原蓄論といった重要な理論もさることながら、味気ない二巻・三巻に比して、軽口を交えながら縦横無尽に繰り出される古典への参照にあるだろう。
 苛烈な児童労働を告発するのはシェイクスピアヴェニスの商人』であり、交換価値の実現の際に唱えられるのはダンテ『神曲』の一節である。「等価形態」においてアリストテレスが参照されていることは有名だが、マニュファクチュア論の源流に置かれているのは、現存する最古の「経済学」(オイコノミコス)の著者クセノフォンである。デカルトの『方法序説』は自然支配と思考方式の変化の証言とされ、資本主義下の富を形容するungeheuer(途方もない・怪物的な)とは、カントが『判断力批判』で崇高を特徴付けるために用いた言葉であった。
 人文学の営みが古典を継承して現在において命を吹き込みことであるとすれば、『資本論』第一巻とはまさにひとつの人文学の実践であったといえる。グローバル資本によって人文学が圧し潰されようとしている今こそ、『資本論』は経済学批判の書としては勿論のこと、人文学のありうべき形としても読まれるべきであろう。

立教大学経済学部准教授 佐々木隆治(ささき・りゅうじ)
 現代の私たちがマルクスを読むのは、かつてのようにマルクスが政治的「権威」や学問的「権威」であるからではない。あるいは、マルクスの著作が社会主義の到来を証明する「聖典」であり、それを信奉することによって社会を変えることができると考えるからでもない。私たちがマルクスを依然として読まなければならないのは、マルクスの資本主義批判こそがもっともラディカルであるからだ。すなわち、この社会のなかで自由を奪われ、差別され、苦しんでいる労働者や社会的マイノリティが手に取ることができる強力な理論的武器であるからだ。今日、資本主義システムは、マルクスが『共産党宣言』や『資本論』で予見したように、ほかならぬ自らの発展と拡大によって危機に陥り、「資本主義の終焉」さえも囁かれ始めている。このような危機の時代において、マルクスのラディカルな資本主義批判は間違いなく最も頼りになる、最強の理論的武器となるであろう。

隆文堂 鈴木慎二(すずき・しんじ)
 二〇〇年前の五月五日に、マルクスは誕生した。一〇一年前のロシアで、マルクス思想を規範として一つの国家を誕生させた。
 およそ五十年前の一九六〇年代にも、当時の怒れる若者たちの必読書の一つとされた。
 ただ、今を生きるわたしたちから、この二つの出来事を振り返ると、マルクス思想の二面性も見えてくる。
 長所は思想を拠り所にして活動すれば、革命を起こして新たな国家を創ってしまうほどの力のある思想。短所はケインズが指摘しているが、ファシズムとの相換性である。スターリン毛沢東全体主義への転換はそれが如実に出てしまった形である。
 長短を踏まえた上で、今読んでいただきたいのは『ユダヤ人問題に寄せて』(光文社文庫収)。読みやすい訳で、改題が充実しており、一五〇年も経過しているのに、宗教、民族、国家の関係を考えるための古典であることに気づかされるはずである。
 今の国内情勢も、海外情勢もこの本を読んだ後の目で見たら、確実に視点が変わる。

岩波書店編集者 中山永基(なかやま・ひでき)
 マルクスを題材にした本を作ったことは(まだ)ない。でも、いつもそばにマルクスはいた。なぜって、私たちが生きる社会は矛盾に満ちていて(出版業界も!)、その原因や構造についてモヤモヤと考え始めれば、どうしたって「資本主義」という大きく厄介な壁にぶちあたるからだ。そして、壁にぶつかって戸惑い彷徨ったときに頼りになるのは、結局のところマルクスだ——そんな気がするのだ。もちろん素人の思い込みの域を出ないが、マルクスほど変革にむけたポテンシャルを感じさせてくれるものはないんじゃないか。
なかには毛嫌いする人だっているけど、それも存在感の大きさゆえだろう。しかも、時の流れが玉石混淆のマルクス研究の蓄積から読むべきものを精選し、刺激的な研究成果を生み出しつつある。今、一読者としても、一編集者としても、マルクスにチャレンジしない理由はないと思っている。

中央大学法学部准教授 西 亮太(にし・りょうた)
 いま日本で最も嫌われている思想は左派思想とフェミニズムだと思う。ツイッターをやっていると、悪口としての「サヨク」や「フェミ」といった語を見ない日は無いほどだ。と同時に、ブラック企業問題や働き方改革論争、#MeToo 運動やセクハラ問題を目にしない日もない。最も嫌われている思想が対象とする事象が、最も耳目を引く話題になっているわけだから、これらは一つの事態の表裏だと考えていいと思う。いま、マルクスを読み、フェミニズムを考えることはわたしたちの社会を考えることだ。さらに言えば、働き方改革が(自称)「女性の輝く社会」とセットになっていることからも分かる通り、この二つの思想は組み合わせて考えられなければならない。決して親和性の高い組み合わせではないけれど、だからこそ二つを対峙させて読み、考えたい。簡単ではないけれど、みんなでやれば無理ではない。みんなで考える、これもまた大事な作業だ。


マルクス生誕200周年コメント集「いま、マルクスを読む意味」(1) #Marx200

掲載は氏名の50音順です。

くまざわ書店ペリエ千葉本店 磯前大地(いそまえ・だいち)
 現実変革の可能性ゆえ、政治的な党派性との混同のなか、「思想そのものの可能性」が考察されにくくなったマルクスの思想。
 その最大の原因の一つとして、マルクスの同伴者であったエンゲルスの思想との混同が指摘される。エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』は権力が“いつ”成立したかを科学的に考察する名著で、日本でも天皇制の起源を相対化するための方法論として大きな影響を与えた。一方、マルクスは、価値や権力が“どのように”発生するかという思弁的な分析を主とした。日本でもソ連と同様に、「マルクス=エンゲルス」の思想として両者が一体となって受容されるなかで、両者の思考法の違いが見失われてしまった。
 違いを明らかにすることで、冷戦下で政治化された「マルクス主義」に陥る前の、マルクスの可能性も見えてくるはずだ。読書案内として、マルクス資本論 第一巻』とエンゲルス『家族』を、日本での受容の様子を知るための貴重な証言として渡部義通『思想と学問の自伝』を紹介しておく。

ジュンク堂書店池袋本店人文書担当 井手ゆみこ(いで・ゆみこ)
 書店の哲学書売場にいっても、その一角が何か異彩を放っているような気がする、マルクスの存在。かつての社会主義崩壊のイメージによりひと昔前に終わった歴史だというイメージが強いです。必読の古典であることはわかっていても、大月書店の赤い国民文庫のズラーッと並んだシリーズなどを見てしまうと、これから何十年経っても、果たしてこれを読む機会が自分に訪れたりすることはあるのかな…などとつい思ってしまいます。でも、経済学はもちろん、哲学、歴史などの本を読むとマルクスについての知識が欠かせないことをいつも痛感させられるのです。資本主義の問題にこれからますます苦しめられていくのであろう現代においては特に。
 そう思い恐る恐る入門書などを読んでみると出て来るのは社会主義の独裁、支配的といったイメージではなく、マルクスの目の前の現状を変えようとする自由な姿勢、自らの思想を頭の中で終わらせない強い実行力、といった瑞々しい姿が見えてきたりします。多くの人が資本主義の次の一手を考えている今の時代にマルクスを読むことは、その思想だけでなく彼の辿った人生そのものが大きな助けになるのだと思います。生誕200年、おめでとうございます!

大分大学経済学部准教授 江原 慶(えはら・けい)
 学問は、これまでの知の積み重ねの上に成り立つ。私たちの社会は気が滅入るほど色んな問題を抱えていて、それに逐一対応するかのように様々な「学」が乱立しているが、それでは学問にならない。そういう場当たり的な「学」による解決は、他で必ず別の問題を生む。
 私はマルクスが全てを解決しているとは思わないし、むしろ今の問題の多くはマルクスを読んでいるだけでは見えてこないと思っている。しかしつい数十年前まで、人々はこぞってマルクスの著作を読んで、当時の諸問題を解決しようと、あの手この手を練ってきた。今の問題に着手するにあたって、成功例も失敗例も含めて、こうした過去の実績を利用しない手はない。ただ、それを読んで理解するには、彼らが読んだマルクスを知らねばならない。マルクスは、先人の知恵にアクセスするためのいわば共通言語になっている。
正直マルクスの著作を読むのはしんどい。ましてやそれについて何か書こうものなら、四方八方から矢とか槍とかが飛んでくる恐怖がある。私も触れずに済むならそうしたいが、イヤでも読まざるを得ない……。

法政大学名誉教授 大谷禎之介(おおたに・ていのすけ)
 マルクスが『資本論』で解明したのが「資本主義社会」の仕組みと運動だったこと,そしていまの社会が「資本主義社会」であること,このことを認めるなら,『資本論』が「現代社会(modern society)」についての書だということになるはずである。ところがマルクスを知っていると称する多くの論者がこのことを認めない。いまの「資本主義社会」は『資本論』が対象とした「資本主義社会」とは同じものではなくなっているのだから,と言うのである。本当にそうなのだろうか。この疑問をもちつづけて『資本論』を読みとおすなら,マルクスがそこで「現代社会」と呼んだ「資本主義社会」がまさにわれわれの「現代社会」そのものであることがはっきりと見えるはずである。どんなに変容した姿を見せるようになろうとも,「現代社会」が「資本主義社会」であり続けるかぎり,「社会的生産有機体」としてのそれの質は変わりようがないからである。ここにマルクスを読む意味がある。

思想史家 熊野純彦(くまの・すみひこ)
マルクスが読まれなくなるとき、なにが終焉するのか?」
 たとえば、プラトンアリストテレスが読まれなくなったとき、哲学といういとなみは終焉するだろう。同時にまた、この世界のなりたちを見なおし、世界を語りだすことばを織りかえして、世界のうちで紡ぎあげられてゆく生のかたちを吟味するこころみが終わりを告げることになるはずである。
 マルクスが読まれなくなったとき、いったいなにが終わることになるだろうか。ひとが現在それを「経済学」と考えている領域は、おそらくそれでも継続してゆくことだろう。マルクスが読まれなくなったとき、終焉するのは、経済学ではなく「経済学批判」であるはずだ。同時にまた、「経済批判」、資本制経済に対する、歴史的・総体的批判であることだろう。資本制がなお継続し、資本と国家が地上を支配しつづけるかぎり、それはつまり生を支配しているものに対する根底的な批判が死滅することにひとしい。
 失われるものはかくて国家と資本の外部を夢みる能力であり、べつのかたちで紡がれる生を構想する力のすべてである。この喪失が生の意味そのものの空洞化とひとしいと考える者はすでに少数者となっているのだろうか。そうであるにしても、あるいはそうであるがゆえに、マルクスはなお読まれなければならない。

よはく舎編集者 小林えみ(こばやし・えみ)
 30歳を過ぎて大学の経済学部に入り、まず需要曲線と供給曲線を習った。これで価格が決まるという。これは無理がないかなあ、と思っていたところで、マルクスに出会った。あ、こっちなんじゃないかな。私は「マルクス」というひとつの理論に出会って面白いと思っただけだった。しかし、その後、マルクスの本を手掛けると「政治の本は関わらないので」とデザイナーさんに断られる、「小林さんはマルクス主義者?」と聞かれるなど、「マルクス」が日本の世間でどうみられているのかを改めて実感した。私は編集者で、本にしてみたい興味ある分野が色々ある。その一つがマルクスであるだけなのに。なんて偉大になりすぎてしまったマルクス
 無理やり理論と政治を切り離す必要はないし、そのうえで感想は人それぞれ違うだろう。でも読まないでレッテル貼りをする前に、誰かの、あなたの、読む本の1冊にマルクスが入っていることが自然なことであってほしい。その読書体験は賛同であれ批判であれ無駄にはならない、魅力的なものであることは確かだ。

NPO法人POSSE代表 今野晴貴(こんの・はるき)
 今、日本では労働・貧困問題の広がりがとどまることを知らない。2000年代後半には爆発的な非正規雇用の広がりと、貧困者の増大が「派遣村」事件や政権交代をも引き起こした。2010年代以後は、問題が正社員にまで拡大し、「ブラック企業」や過労死問題が社会を揺るがしている。 かつて、労働問題や貧困は、経済成長と共に改善すると言われ、資本主義の構造的な矛盾を指摘したマルクスの予言は外れた、などと言われてきた。しかし、今日、私たちが目の当たりにしているのは『資本論』に示されている、資本主義の矛盾そのものである。 機械や技術の進歩がもたらしたのはユートピアではなく、膨大な失業者と労働者の競争状態であった。リーマンショックに見られるように、資本蓄積の中で彼らは吸収され、排出され、ますます生存の余地が狭められている。労働者の尊厳は貶められ、介護・保育などのサービス受益者はないがしろにされている。 今こそ、私たちは私たちが生きる時代の社会構造に向き合うべきだろう。

マルクス生誕200周年記念 斎藤幸平氏インタビュー「世界のマルクスの読まれ方」

2018年5月5日はカール・マルクス生誕200年の記念日です。世界各地での盛り上がりについて斎藤幸平氏に話をお伺いしました。
斎藤幸平 1987年生まれ。大阪市立大学大学院経済学研究科・経済学部准教授。
TwitterID @koheisaito0131


—昨年は、資本論(初版)刊行150周年、今年はマルクス生誕200周年ということで、ドイツを中心に世界中で盛り上がっていますね。
 それはアカデミックな世界だけではなく、ゼロユーロ紙幣が発行されたり(「マルクス生誕200年記念の「ゼロユーロ紙幣」、大好評で増刷へ」ロイター、2018年4月19日)、信号がマルクス柄になったり(「German city installs Karl Marx traffic lights」BBC、2018年3月20日)、親しみをもって楽しんでいるようです。
 斎藤さんは、昨年はカナダでのカンファレンスに参加され、今年はドイツ、インドの国際会議に参加されると伺っています。
 カナダでの様子はいかがでしたか?

 ヨーク大学はトロント大学と違って、町の中心部から結構離れています。さらに、ビクトリアデーの祝日の週末に到着したこともあり、学生はあたりを見回しても全然いないし、学食も開いてないしで、飢え死にするかと思いました(笑)。なので、登壇者もウォーラーステイン、バリバール、サッセン、ボブ・ジェソップなど非常に豪華メンバーなのに、本当にカンファレンスに人が来るかを勝手に心配していました。
 ところがふたを開けてみると、企画者のマルチェッロ・ムストも驚くほどの連日超満員。数百人入るホールも階段に座る人や立ち見が出るほどの人がやってきました。おお、すごいなと普通に驚きました。

 でもこの話には続きがあって、カンファレンス後にトロント市内に行ってびっくりしたのですが、街にもたくさんカンファレンスのフライヤーが貼ってあるのです。ホテルの前の電柱とかバス停にまで。マルクスを広めようとするなら、これくらい本気でやらないといけないということを思い知らされました。(笑)

バス停に貼られたポスター

 聴衆にも、日本と大きな違いがありました。その後10月に東京で同じような『資本論』150年の記念シンポジウムがあったのですが、こちらも150人くらいの人が来て、会場はほぼ満員でした。でも、みんな白髪のおじさんばかり。それに対して、トロントでは、聴衆は平日に開催したこともあり、若い人が中心で、女性も多かった。マルクスへの関心が全然違うなと感じました。

—なるほど。少し話は変わるのですが、そもそも、そのように斎藤さんが国際的に活躍されているバックボーンを知りたい方も多いと思いますので、今までの経歴を教えてください。

 高校卒業後、渡米し、ウェズリアン大学というリベラルアーツ政治学を専攻して卒業しました。もっとマルクスを勉強したくて、ドイツに行き、ベルリン自由大学で修士課、フンボルト大学で博士課程をそれぞれ修了しています。ポスドク時代はカリフォルニア大学サンタバーバラ校にいましたが、今は大阪市立大学経済学部で教えています。
 博士論文は Natur gegen Kapital: Marx' Oekologie in seiner unvollendeten Kritik des Kapitalismus (Campus, 2016)として刊行されていますが、専門はマルクスエコロジー思想です。また、この英訳版 Karl Marx’s Ecosocialism: Capital, Nature, and the Unfinished Critique of Political Economy もマンスリーレビュー出版から刊行しています。

—ありがとうございます。話をマルクスの読まれ方に戻すと、『『資本論』の新しい読み方』について「この入門書をぼくが訳そうとそもそも思い立ったのは、ドイツの社会運動をやっている友人の家にいくと、マルクスを読んでいないようなやつの本棚にもこの本が必ずあったからなんです」と著者インタビューでお話されていました(ミヒャエル・ハインリッヒインタビュードイツで支持を集める経済学者が語る『「資本論」の新しい読み方』)。マルクスの著作はドイツでカジュアルに読まれているのでしょうか。

 まぁその友人は左翼なので、読んでいても不思議じゃないかもしれませんが、やはり研究者以外でもマルクスを読んでいる印象です。それはベルリンでもローザルクセンブルク財団が企画している『資本論』読書会などに参加しても感じていたことです。
 それは自動的に人が集まってくるという話ではもちろんなくて、ローザルクセンブルク財団がかなり努力をしていると思います。例えば、ローザルクセンブルク財団主催の今度のベルリンのカンファレンスでは、Kammerflimmer Kollektiefというバンドを呼んで、そのままクラブでオールナイトのパーティーを企画したりと、いろいろな人が楽しめるようにかなり真剣に考えています。
 また『資本論』読書会のチューター3人のうち2人が女性であったり、カンファレンスにも様々な地域や性別の人を読んだりすることも、より幅広い層に届く一因ではないでしょうか。これは別にローザルクセンブルク財団に限ったことではなく、トロントの時も、ムストはインタビューを撮影して、マルクスの現代的意義についてのドキュメンタリーを作成しようとしていました。
 にもかかわらず、トロントのカンファレンスでは、アカデミックな人ばかりかと思って、デヴィッド・ハーヴィーみたいに英語だけで『資本論』を読んでいては話にならん、マルクスを理解するためにはドイツ語とフランス語で読め、みたいな話を調子に乗ってしていたら、後から組合運動をしている人に「労働者中心で勉強会を開いている俺たちはどうすればいいっていうんだ」と詰問されて、反省しました(笑)

—斎藤さんはフランスの新聞「Humanité(ユマニテ)」でもインタビューをうけておられ(記事「Marx et l’écologie au XXIe siècle」)、トルコ語にも訳されたそうですね(記事「21. yüzyılda Marx ve ekoloji: Kohei Saito ile söyleşi – Jerome Skalski」)。また、マルクス生誕200周年について英紙「フィナンシャル・タイムス」、独紙「南ドイツ新聞」の記事を政治家の志位和夫さんがTwitterで紹介されてました(2018年4月22日9:41)。欧米のジャーナリズムとしてはマルクスにどのような関心をもち、どのように報道がされているのでしょうか。

 私はその「フィナンシャル・タイムス」「南ドイツ新聞」の記事を読んでいないのですが、最近見たものの中では、「ガーディアン」にヤニス・バルファキスが『共産党宣言』の現代的意義について書いていたり、『ポストキャピタリズム』で有名なジャーナリストポール・メイソンが「K is for Karl」という5本だてのビデオクリップを公開し、「疎外」や「共産主義」などのマルクスの概念について説明したりしています。

 バルファキスもメイソンもマルクス研究者ではありませんので、その内容は非常にわかりやすいものになっています。その分、研究者のなかには彼らの解釈を「俗流」と呼ぶ人もいます。ただ、彼らの鋭い現代資本主義の分析の背景には、こうしたマルクス解釈があるというのを知ることができるのは大変興味深いですし、マルクスの基本的アイデアを多くの人に届けているという意味では、非常に重要な仕事をしていると思います。
 去年は『資本論』刊行150周年、今年はマルクス生誕200年ということで、英語圏やドイツ語圏でも有名出版社からマルクスの伝記や研究書が刊行されていますが、その大半がマルクスの「限界」を最終的に強調するだけで終っているのに対して、メイソンやナオミ・クラインといったジャーナリストたちの方が難しい概念を使わずとも、マルクスの現代的意義を展開していて、圧倒的に面白いです。

—残念ながら日本ではそういう展開はあまり見られないですね。書店員さんからのお話によるとマルクス関連図書の読者の中心は昔からの関心で読んでいる団塊世代のようです。また、例えばフランス現代思想の思想家たちが連関をもって展開され、店頭のフェアなども多様なのに対し、マルクスから、あるいは他の思想家から連関してマルクスを展開させることが難しかったりするようです。読者の側も様々な方向から読もうとする動きはあまり多くないかもしれません。
 ローザルクセンブルク財団の動画「Marx200」でも最後に「批判的に評価しよう」と締められているように、特定の政治思想をあらかじめセットして読むのではなく、もっと広い関心や方向性から、テキストの可能性を読むことができますよね。

 ご自身の研究の展開については佐々木隆治さんとの対談でもお二人からお話頂いていますが(「マルクスのアクチュアリティ」)、学生、他分野の研究者、読者にもっとこういう関心で読んでほしい、というリクエストなどがあれば教えてください。

 日本だと「疎外」「搾取」「共産主義」といったマルクスの概念はなんとなく時代遅れで、かっこ悪いというイメージが広がっていると思います。私や佐々木さんが「物象化」、「物質代謝の攪乱」、「脱商品化」などの概念を代わりに使うのには、無意識的にせよ、意識的にせよ、そういう背景があると言えるでしょう。ただ、最近メイソンやクラインの議論を読み返したり、海外の若い人々と交流するなかで、一見「素朴」な概念が持つパワーを再確認しつつあります。こちらが「草稿が……、抜粋ノートが……」とばかり言っていてもやたらハードルが高く感じてしまうでしょうから、マルクスの思想をもとにして、もっと多くの人々にも興味を持ってもらえるような話を今後展開したいと思っています。とはいえ、それはいつになるかわからないので(笑)、マルクスは時代遅れと思う人も、メイソン、クライン、あるいはアントニオ・ネグリマイケル・ハート、さらにはデヴィッド・グレーバーの著作に触れていただけるといいなと思っています。

—最後に、今年これから参加される国際シンポジウム、また国内の予定なども差し支えない範囲でご紹介ください。

 5月5日のマルクスの誕生日に合わせてベルリンで開催されるカンファレンスで発表します(Marx200)。6月にはインドのパトナで開催されるカンファレンスにも呼ばれています。12月22、23日には法政大学で記念国際シンポジウム(2018年マルクス生誕200周年記念国際シンポジウム)が予定されています。ムストもサバティカルを使って、大阪と東京に3か月ほど滞在する予定なので、このシンポジウムにも参加してもらう予定でいます。他にもいろいろあるのですが、ちょっと(飛行機を利用すると)二酸化炭素排出の問題もあるので(笑)、いくつか断ろうと思っているので、とりあえずそんな感じです。あとは、本の企画もいろいろ動いています。

—ありがとうございました。これからのさらなるご活躍を楽しみにしています。

(インタビュアー 小林えみ)

【関連書籍】 『nyx』3号第一特集「マルクス主義からマルクスへ」