#nyx5号 第二特集「革命」主旨文公開

 「政治」という言葉で、何を思い浮かべるだろうか? 民主主義、選挙、国会、デモ……かつては、そのリストのなかに間違いなく「革命」も含まれたにちがいない。だが近年、政治と革命が正面から論じられることは稀になっている。じっさい、昨年はロシア革命一〇〇周年であり、今年はマルクス生誕二〇〇年、一九六八年の五月革命から半世紀であるにもかかわらず、革命がそれほど注目されているようにはみえない。「現存社会主義」であったソ連が崩壊し、九〇年代以降グローバル資本主義の勝利が叫ばれるなかで左派は影響力を失い、革命をめぐる言説や実践は背景に退いていった。一般的なイメージでは、革命はヘルメットとゲバ棒を身に着けて、バリケードを築けば、社会が変わると考える馬鹿げた妄想と捉えられているのかもしれない。トランプの当選、ブレグジット、安倍政権の暴走といった現代政治の文脈で重要なのは、そのような妄想ではなく、民主主義の制度設計であり、立憲主義だというわけだ。もちろん、そうした指摘の正しさは疑いようがない。だが同時に、ここで念頭に置かれている「革命」の表象はステレオタイプに満ちていて、貧しい。
 歴史においては、革命はより切迫した問題であり、思想もまた革命を繰り返し扱ってきた。ヘーゲルフランス革命レーニンロシア革命アーレントアメリカ革命、フーコーイラン革命など、いくつもの例をあげることができるだろう。革命は自由と平等を論じる際に不可欠な役割を果たしてきたのみならず、主権、暴力、民主主義をめぐる様々な問い誘引してきたのである。
 革命は暴力的で、破壊的である。だからこそ、人々はそれを民主主義との関連で論じることを望まないし、革命などというものが存在することも認めようとしない。それは左派でさえもそうである。マルクス主義の影響を受けたエルネスト・ラクラウやジャック・ランシエールといった左派は「ラディカル・デモクラシー」を唱え、ユルゲン・ハーバマスに代表される熟議型民主主義を批判している。だが他方で、政治的なものを「出来事」としてとらえていることによって、革命はもはや革命として論じられることなく、デモクラシー内部での出来事へ解消されてしまう。革命はそのポテンツを剝奪され、デモクラシーという名のもとで馴化されているのだ。こうした革命の否認には、独裁やテロルといったやっかいな否定性が革命にとり憑いており、そのことがデモクラシーとの緊張関係を生んでいるという事実に対する暗黙の承認があるのかもしれない。だが、このような否定性から目を背けてはならない。このような否定性は、既存の社会的諸関係にはとらわれない、別の社会のあり方の可能性を示唆してもいるのだから。
 われわれはソ連崩壊後、革命なきポスト共産主義の時代に生きてきた。だが人類史的にみれば、革命の時代はいつ回帰してきてもおかしくない。事実、世界的にみれば、オキュパイ・ウォールストリート、15M運動、アラブの春といった新たな運動の台頭をめぐって、「革命」が再び論じられるようになっている。そのような現状も踏まえ、本特集は、革命の思想史を辿ることによって、自由や平等をめぐる問いを歴史的に再構築していくことにしたい。

斎藤幸平

『nyx』第5号(2018年9月20日発売)

斎藤幸平 一九八七年東京生まれ、大阪市立大学経済学部准教授。著書にNatur gegen Kapital: Marx’Ökologie in seiner unvollendeten Kritik des Kapitalismus(Campus Verlag, 2016.) 等。

#nyx5号 第一特集「聖なるもの」主旨文公開

 宗教の本質、世俗を超越した次元、人間の生における至上の価値、いわく
言いがたい深遠にして崇高なもの―、ひとはおよそこれらのものを〈聖な
るもの〉と呼ぶ。
 〈聖なるもの〉(the sacred, le sacré, das Heilige)とは「聖なる」を意味する形容詞sacred, sacré, heiligを実詞化したものであり、その対義語は「俗なるもの」(the profane, le profane, das Profane)である。それは一般的に宗教の領域に属するものや日常の秩序から隔絶したものを指すために用いられる。具体的に言えば、神、聖域、教会や寺社仏閣、聖人や人格一般、宗教的儀礼、芸術作品といったもののうちに〈聖なるもの〉が認められる。
 とはいえ、〈聖なるもの〉という概念はこれまであまりにも無反省に用いられてきた。それは一方で、一九世紀から二〇世紀にかけて歴史的に形成されてきた概念であるにもかかわらず、その経緯は顧みられることなく、あたかもア・プリオリであるかのように自明視されている。〈聖なるもの〉は宗教的なものを規定する本質(オットー、デュルケーム)だとか、世界を秩序付ける実体(エリアーデ)だといったように扱われてきたのである。
 それはまた他方で、芸術やエンターテイメントを批評する際に、あるいは、特異な体験を表現する際に、何らか神秘的なものや超越的なもの、言語化不可能なものを指さ すために用いられることもある。そのとき、〈聖なるもの〉という語は、その内実を十分に分別されることなく、何でも放り込める「ゴミ箱概念」としてしばしば便利に使われてしまう。
 しかし、古くは宗教現象を研究するために「聖」概念は必要ないとしたペッタッツォーニや、「宗教」概念は西洋近代的なものにすぎないとする近年の宗教概念批判(J・Z・スミスやT・アサドら)を通じて、そうした素朴な〈聖なるもの〉理解がもはや失効していることは、宗教学においては周知の事実である。
 では、こうした議論を踏まえた上で、それでもなお〈聖なるもの〉という
概念は人間や社会、宗教にとって重要な意義をもちうるのだろうか。それと
も、単なる虚構にすぎず、捨て去られるべきなのか。もし仮に世俗化の時代
とされる現代にあっても何らかの可能性が残されているとするなら、それは
どのような途でありうるのだろうか。
 本特集では、〈聖なるもの〉を実体として前提とすることなく、あくまでも歴史的に形成されてきた概念として批判的に検討する。まず、〈聖なるもの〉をめぐる一般的な学説史を確認した上で、次に、哲学、神学、宗教学、解釈学、社会学文化人類学表象文化論、認知宗教論、日本思想史といったそれぞれの見地から、この概念を反省的に捉え返し、さらにその先へと議論を展開していく。このように根源的に問い直すことを俟って初めて、現代社会における〈聖なるもの〉の限界と可能性も明らかになるだろう。

江川純一・佐々木雄大

『nyx』第5号(2018年9月20日発売)

江川純一 一九七四年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科助教。専門は宗教学宗教史学。著書に『イタリア宗教史学の誕生―ペッタッツォーニの宗教思想とその歴史的背景』、共編著に『「呪術」の呪縛【上・下巻】』等。

佐々木雄大 一九七八年生まれ。日本女子大学助教。専門は倫理学。論文に「バタイユにおける聖と俗の対立の問題」 『倫理学年報』二〇一八年。「タブーは破られるためにある―エロティシズムにおける禁止と侵犯」『nyx』二号、二〇一五年、「〈エコノミー〉の概念史概説―自己と世界の配置のために」 『nyx』創刊号、二〇一五年、等。共著に『近代哲学の名著』中公新書、二〇一一年、『現代哲学の名著』中公新書、二〇〇九年、等。


『nyx』第5号刊行予告

8月末本出来予定、9月上旬から流通開始予定となります。

『nyx』第5号 書誌情報


【第一特集「聖なるもの」 主幹:江川純一×佐々木雄大】佐々木雄大 序文「〈聖なるもの〉のためのプロレゴメナ

江川純一×佐々木雄大 対談「〈聖なるもの〉と私たちの生」

馬場真理子「空虚な「聖なるもの」」
原俊介「オットーの聖なるものと魂の根底(Fundus Animae, Seelengrund)――ドイツ神秘主義と近代認識論(心理学・論理学・美学)の系譜から」
江川純一「ペッタッツォーニの「サクロロジア」」
佐々木雄大「堕天使と悪魔の諍い――カイヨワとバタイユとの〈聖なるもの〉の差異」

ミルチャ・エリアーデ、奥山史亮 訳「原始神話体系」
奥山史亮「原始神話体系」解題

溝口大助「聖なるものと事物――デュルケム学派における聖なるもの」
橋本一径「イメージと聖なるもの」
藤井修平「宗教認知科学CSR)における脱神秘化された「聖なるもの」」

ドミニク・ヨーニャ=プラット、小藤朋保 訳「聖――形容語から実詞」
ダニエル・エルビュ゠レジェ、田中浩喜 訳「社会学者と聖なるもの」
鶴岡賀雄「「聖なる(もの)」という言葉を使うために」

鴻池朋子×江川純一 対談「アート・魔法/呪術」

【第二特集「革命」 主幹:斎藤幸平】
深井智朗「宗教改革は「革命」なのか」
鳴子博子「ルソーの革命とフランス革命――暴力と道徳の関係をめぐって」
石川敬史「収斂としてのアメリカ革命」
斎藤幸平「革命と民主主義――マルクス対ポスト・マルクス主義
塩川伸明「ポスト社会主義の時代にロシア革命ソ連を考える」
酒井隆史「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて――コミュニズムはなぜ「基盤的」なのか?

マルクス・ガブリエル来日関連記事】
千葉雅也×マルクス・ガブリエル 対談 「新実在論」「思弁的実在論」の動向をめぐって
マルクス・ガブリエル、加藤紫苑 訳 「なぜ世界は存在しないのか――意味の場の存在論と無世界観」

【単発記事】
飯田賢穂 レポート「なぜ、哲学なのか? 発言する哲学、越境する哲学」

大学・大学院からの留学/河南瑠莉氏/海外進学のススメ

河南瑠莉さんは、現在ベルリン・フンボルト大学の文化科学研究科修士課程に在籍されています。1990年東京生まれで、早稲田大学、ベルリン自由大学で政治経済学・文化政策を学んだ後、現在に至ります。博士課程からの留学などは研究者でよくみられるキャリアですが、大学卒業後の海外進学、修士も海外で、というプロセスは一般にあまり情報が知られていないではないでしょうか。海外進学へ至った道のりと現在の学業についてお話をお伺いしました。

 早稲田大学を卒業されたあと、なぜフンボルト大学へ行くことになられたのでしょうか。

 日本の大学院への進学を考えていた時もあったのですが、私の希望していた文化研究(Kulturwissenschaft)という少し変わった研究アプローチがそもそもドイツ特有のものであったという研究上の理由と、また学費のかからないドイツであれば比較的少ない費用でも渡航できたからという現実的な理由があります。
 日本の学部時代から、ドイツの学術関連の出版社ズーアカンプ(Suhrkamp)社の学術書を愛読しており、そこで所謂伝統的なディシプリンである「美術史」や「文学研究」、英米圏における「カルチュラル・スタディーズ」とも異なる独自の研究のあり方を知り、これまでにない知的な興奮を覚えることがありました。それ以来フンボルト大学はじめドイツ国内の幾つかの大学にコンタクトを取っているうちに、ドイツへの進学が具現化されていきました。

 語学はどのように勉強されたのでしょうか。

 高校の一時期をベルギーの現地校(オランダ語)で過ごしたことがあったため、ドイツ語に関しては比較的困難を感じることなく勉強できました。しかし周りを見ていても、帰国子女だから有利だとか、外国語における言語運用能力が格段高いとかいうことはありません。むしろ研究レベルで使える外国語運用能力を身につけるには、母国語における読み書き能力、論理的思考の基盤の有無の方が重要になるのではないでしょうか。ドイツの大学では読書量・執筆量が圧倒的に多いので、言語に関しては否が応でも鍛えられてしまう環境があると思います。

 ご専門の文化研究(Kulturwissenschaft)という分野について、もう少し教えてください。

 ドイツ的な「文化研究」とは、文学研究や美学美術史、はたまた民族(俗)学や歴史研究と対象をある程度同じとしているものの、何が違うのかというと、先ほどの言葉を使えば「研究のあり方」に要約されると思います。非常に極端に言ってしまえば、ドイツにおける「文化研究」とは、ある特定の文化そのものにまつわる分析をするのではなく、「文化」や「社会」などという人文学が当たり前のように「対象」としてきたものがいかなる偶発性の中で構築されてきたのか、その所以を歴史的・哲学的にたずねていこう、という認識論的な研究になると思います。ドイツの学者アンドレアス・レックヴィッツ(Andreas Reckwitz)はラディカルにも、「文化研究」の直接の対象は「文化ではない」とさえ言っているくらいです。 (もちろん何をもって「文化科学」と規定するかはドイツ国内でも決着がついていない部分があり、ディシプリンの根源を問う行為そのものが「文化科学」的なアプローチであるとも言えます。そのようなパースペクティブの複数性を反映して「文化科学」をKulturwissenschaftenと複数で表記する場合も多くあります。レックヴィッツの立脚点についてはこちらを参照ください。Die Kontingenzperspektive der „Kultur“ – Reckwitz, in: Friedrich Jaeger/Jörn Rüsen (Hg.): Handbuch der Kulturwissenschaften, Band III: Themen und Tendenzen, Stuttgart/Weimar 2004, S.1-20)
 私の場合、文化研究の中でも専門を「美術館・博物館学」としておりますが、特にドイツ系・メディア論の影響が濃厚な先生方のもとで指導を受けてきたことが専門分野を選ぶ経緯となったと思います。個々の作品の美学的価値ももちろんですが、むしろそれよりも作品に価値を付与してしまうメディウムとしての「ミュージアム(美術館・博物館)」、あるいはこうした媒体が行使する「エクリチュール(批評・論文)」という文化的技術が、西洋において形成されてきた過程を自明の歴史としてではなく特殊・偶発的なものとして捉え直すことに関心がありました。ですので、たんに「美術の歴史」や「博物館の歴史」といったディシプリン内在的な問い立てではなく、それが一つの知のエピステーメとして構成され(得)る状況を探るドイツ的な「文化研究」に強く惹かれたため、今の研究科に在籍するに至りました。

 留学に関して、ご家族など周囲の方はどのような反応でしたでしょうか。

 ちょうど周りの学生が新卒である程度良い条件下で就職していく中、進学すること、しかも2年で修了できるのかわからない外国での学位取得を目指すという私のプランを、周囲はあまり具体性あるものだとは思ってなかったのではないでしょうか。MBAなどビジネスに直結するタイプの学位や、医師免許など国家資格が取得できる学位など、目に見える形でのアウトプットがない研究分野でしたので、尚更「なぜ・いま・あえてドイツ」へいく必要があるのか周りから理解してもらうのは難しかったです。幸か不幸か家族からは進路については無干渉でしたので、反対はされませんでした。

 留学の情報はどのように集められたのでしょうか。また、日本の大学や国、周囲の支援はいかがでしたか。

 海外進学については全て自分で情報を集めました。日本の大学では、学内の制度を活かした「交換留学」についてはサポートが充実しているのですが、国外への「進学」となるとなかなか難しいようです。さらに英語圏以外の大学となると、日本の大学にとっても未知数の部分が多いので、私を含め周りの学生もみな、自分で情報収集していたと思います。最近では、文部省の「トビタテ留学」など、日本国内でも海外進学を奨励する制度が整ってきているようですね。
 また、「留学」といいましても、実は私はドイツの大学側からすると「留学生」ではありません。一般の「学生」だけど、たまたま外国籍だったという扱いですね(人口の4人に1人が外国人だと言われているドイツでは、学生の国籍が外国であるということは特別なことではありません)。これは何を意味するかというと、進学の段階にあっても普通の学生と同様に自分で情報を集め、必要であれば受験(研究計画の提出など)をし、受理されたら研究科の要綱に沿って独自の研究スケジュールを計画する、ということです。一部の大学では「外国人学生受入枠」もあるようですが、無い場合は現地の学生と同じ条件での受け入れになります。なので、かなり早い段階で進学希望先の教授にコンタクトをとり、ビザや滞在許可についても各自で大使館などに条件を問い合わせておくことを勧めます。
 私の研究科は受入条件が厳しく、日本の学位や学士時代の成績は認定されたものの、それがドイツの大学と同等の勉強の質を客観的に証明するものではないとの理由で一度は受験を拒否されたり、ハプニングもありました。そのほか制度的な面で問題は諸所あったのですが、ドイツでも日本でも個人的に面識のある先生方からは推薦状を書いてもらうなど非常に親切に対応・応援していただきました。

 なぜ「留学」制度ではない形をとられたのでしょうか。

 ドイツの大学で「留学」というのは、ドイツ国外の大学に所属している学生や研究者がなんらかの派遣プログラムを通じてドイツに数年滞在する形を指すことが多いと思います。ドイツで「留学生」になるには、日本の大学院に在籍しながら単位の一部をドイツの大学で取得するという形が一般的になるのではないでしょうか。確かに留学というのは制度的にコーディネートされているので、派遣・受入の手続きが比較的にスムーズだと思います。受入先でも、あらかじめ担当教員が決まっていたり、ドイツの大学生活を上手くスタートできるように特別のカリキュラムが組まれていたり、「留学センター」などが住居や生活面でのサポートをしてくれることも多いと思います。
外国籍であろうとドイツ籍であろうと一般の「学生」にはそのような特別なサービスはありませんが、その代わり日本の大学を通さずとも正規の学生として現地の教授陣の指導を直接仰ぐことができます。研究分野にもよると思いますが、私の場合は厳密な意味での文化研究がドイツ特有の研究領域であったため直接進学する形を選びました。また進学すれば、ドイツの学生であるので学費が無料になるだけでなく、ドイツの学生や研究者を対象にした研究予算を申請して研究することが可能になります。私も2年前、学内で一時的に批評のプラットフォームを共同で立ちあげたのですが、これも一部フンボルト大学の研究予算で運営し、国際シンポジウムなどを開くことができました。

 今の生活で良いところ、また反対に大変なところはどういったところでしょうか。

 私は事情あって、進学と同時に働きながら大学院に通うことになりましたので、素早く学位を取得し帰国なり博士なり次のステップに行くということはできませんでした。初めは自分の勉強・研究に充分な時間を取れないことに対しフラストレーションを感じることもありましたが、その分ドイツで働き、研究や仕事を通じて多くの方とお会いすることができ、今まで知らなかった働き方や専門分野などたくさんの可能性を見つけることができました。学部時代にはじめて渡独したのが2011年、それ以来ドイツ社会も劇的に変わりましたし、自分自身のライフステージにも変化がありましたが、紆余曲折したからこそ、結果として大学で時間を過ごす以上にドイツという国の文化、ドイツ人の生活や労働の価値観を間際に感じながら生活することができたと思います。

そちらでの勉強の様子、大学の様子などを教えてください。

 大学院なので授業はあまり多くなく、各自の研究が中心となってきます。授業は演習やセミナーが中心で、20枚程度のゼミ論文を6本ほど提出すれば一応、修士論文を残して「必修単位」は比較的早く取得できてしまいます。が、学生はみな自主的に研究グループを作ったり、インターンシップをしたり、かなり忙しく過ごしているように思います。私の場合も始めの2年で単位取得はしておりますので、あとは学生研究アシスタントとして働いたり、ほかにも幾つかプロジェクト単位で働いたりしながら、基本的には図書館で修論を書いて日々過ごしております。卒業の時期も9月に一斉卒業というようなことはなく、個人のスケジュールで動いていますから、大学内では「同期」「ゼミ生」といったユニットはあまりありません。
 日本で研究をしていると、外国の見識を得るということが研究者の一つのタスクでありチャレンジでもあるとも思うのですが、ドイツの大学では英語・ドイツ語・フランス語などを通じてヨーロッパの多くの国の言説が翻訳を待たずともダイレクトに入ってきます。言語の壁による受容期間のギャップが少なく、論文発表やシンポジウムを通じて同時代的な議論に直接参加できるのは大変刺激的ではありますが、言葉がわからないから近年の議論の動向を知らなかったとか、あとは翻訳版だけ読んでいて原書を読んでいない、などというのが許されない厳しさもあります。私は必ずしも原著絶対主義ではありませんが、3ヶ国語以上できて当たり前の人文系の中でフランス語がそこまでできないこと、美術史を紐解くのに不可欠なラテン語の知識を欠いていることなど、少なくとも知へのアクセスの面では日常的にハンディキャップを感じております。

 差支えない範囲で、河南さんの留学仲間・先輩方といった周囲の方の、同じように良さそうなところ、大変そうであったところなど教えてください。

 先ほど「留学」と「海外進学」において制度的な相違点をお話ししましたが、周りを見ていても、この違いは進学時だけでなく海外生活中ずっと離れない問題だと感じました。日本では、後に日本へ戻る際のキャリアを考えて、時期や目標を明確に限定した前者が勧められることも多く、制度的に保証が少なく現地に放り出されてしまう「移住」型の「海外進学」はまだまだ少数派だと聞いておりました。
 しかしドイツへ来てしまいますと、日本人も含め本当に様々な人が多様な目的でドイツに移住しています。現地の大学で学位をとることは研究者になる・ならないにかかわらず、こちらの社会で居場所を見つけるための有益な基盤となっていることは確かです。来てみてわかったことですが、ドイツの大学院に修士課程から来ている日本の人は意外と多いですね。漠然と進学するには言語的にも制度的にもハードルの高いドイツだからこそ、まわりの先輩方を見ていますと目的意識をもって充実したドイツ生活を送っている方が多いと思います。修士から博士へ行かれる方もいますし、修士を取得して現地で就職したり、事業を立ち上げたりアーティストとして活躍する方もたくさんいます。大学を出たあとで「これが正解」という生き方・働き方がない分、皆自由と責任を持ってやりたいことを追求している人が多く、見ていて励みになります。
 大変そうだなと思ったのは、家族の都合や何らかの事情で日本に帰ることを余儀なくされた時にどうするかということですね。当然日本でも、これまでの経験を活かせる職場・研究環境を探すことになるのですが、ここにきて障壁にぶつかったというお話はよくうかがいます。ドイツ人の同僚・研究者に囲まれてドイツで働き、場合によってはこちらで家族をもちながら生活していると、業種や研究が日本に直接関係あるものでない限り、日本における同業の方とのコンタクトがどうしても薄くなりがちです。また、女性であれば、年齢や子供の有無で左右されがちな日本の雇用� ��態に悩んだというお話も伺いました。外国で暮らしながらも将来帰国することを踏まえて日本との縁を構築し続けること、また、簡単に聞こえるかもしれませんが単純に日本語を忘れずに維持し続けること、これは学生や研究者にかかわらずとも「移住」型を選んだ人全てを悩ませる課題だと思います。

 後輩へのアドバイスなどあれば、お願いいたします。

 少し外国で勉学をしてみたいけれど、近い将来は日本で働くことを前提としているのなら、日本の大学に所属を残して、ダブルディグリー制度など何らかの枠組みの中で留学されるのがいいと思います。奨学金などの面でも、ドイツの研究機関に数年以上滞在してからだと日本側の奨学金への応募資格がなくなってしまうこともあるので(ポスドクなどは例外もあるようです)、自分にとって何が最適か調べておくといいと思います。
 しかし、来てみたら、現地で家族ができたり、知らなかった研究分野に出会ってしまったり、想定外のことが起こるのが常ですし、逆にそれによって日本で考えていたキャリアプランより更に大きな目標を描ける人も多いと思います。周りでもドイツの大学を出た人はある程度楽しくドイツ社会の中で居場所をみつけている人が多いので、目標があるのでしたらあまり不安に思いすぎず、おおらかに構えて進学されたらいいと思います。
 またドイツにはいわゆる大学間の「偏差値」のようなものがないので、大学ランキングのようなものは、ほとんどあてになりません。同じ大学でも研究科ごとにカリキュラムも研究予算も雲泥の差です。ドイツの大学に進学される場合は、何を学びたいのかを明確にし、どこでその分野が学べるのか、指導を仰ぎたい教授はどこに在籍しているかを基準に選ばれると良いと思います。

 ありがとうございました!

インタビュアー 小林えみ

河南瑠莉(かわなみ・るり) 1990年、東京生まれ。早稲田大学、ベルリン自由大学で政治経済学・文化政策を学んだ後、ベルリン・フンボルト大学の文化科学研究科修士課程に在籍。ベルリン森鴎外記念館の研究助手として制作・リサーチ・翻訳を担当し、常設展示の新設に携わる。近代思想史、美術館学・博物館学を専攻。訳書に『資本主義リアリズム』
リサーチマップ

ブックツリーにて選書をされています
「後期資本主義時代の文化を知る。欲望がクリエイティビティを吞みこむとき」

シノドス寄稿記事
「無数の断片の中に潜り込みながら――ドクメンタのナラティブ・テクニック」(2017年8月25日)
「空き家から生まれる「ポスト成長都市」――ライプツィヒの持続可能なハウスプロジェクト」(2017年10月27日)

マルクス・ガブリエル氏来日関連記事一覧 #Gabriel2018Japan

2018年来日時のガブリエル氏関連記事です。リンクは各社の都合できれることがありますのでご了承下さいませ。

哲学者が語る民主主義の「限界」 ガブリエル×國分対談」『朝日新聞』、2018年6月20日國分功一郎氏との対談、通訳:斎藤幸平(紙面掲載は6月29日32面)

「入門マルクス・ガブリエル」『読書人』6月29日号1面、インタビュアー:浅沼光樹、通訳:セバスチャン・ブロイ

「知識人には社会問題を語る義務がある」『神戸新聞』7月6日朝刊、インタビュー掲載

哲学的になりすぎないこと~マルクス・ガブリエル氏との対談を終えて」『現代ビジネス』7月6日、國分功一郎氏寄稿

「政治に倫理は大事なものでなくなった」 ドイツの哲学者、ガブリエルさんが語る 広がる「21世紀型ファシズム」」『毎日新聞』夕刊2面、7月6日、インタビュアー・記事:藤原章生毎日新聞

《イベント》資本主義の比較史(10/6開催)

山本浩司さんの著書 "Taming Capitalism before its Triumph"刊行を記念し、その著書関連のシンポジウムが開催されます。

Political Economy Tokyo Seminar
資本主義の比較史――Yamamoto, 2018 Taming Capitalism before its Triumph をめぐって

日程 2018年10月6日(土)
時間 13~19時
会場 東京大学経済学研究科学術交流棟小島ホールコンファレンスルーム

提題者 山本浩司

プログラム
13:10-13:40 提題:山本浩司 「Taming Capitalism と比較史への招待」

13:40-13:50 質疑応答

西洋史からのコメント》
13:50-14:20 坂本優一郎  関西学院大学 イギリス経済史「近世を問う:Koji Yamamoto, Taming capitalism before its Triumphによせて」
14:20-14:50 隠岐さや香  名古屋大学  フランス科学史
14:50-15:20 長谷川貴彦  北海道大学  西洋史方法論「歴史学方法論からのコメント」

15:20-15:50 休憩

《日本史・東洋史からのコメント》
15:50-16:20 岸本美緒   元お茶の水女子大学 中国史「17世紀中国経済と秩序問題―ー表象・時代観と長期的社会変容」
16:20-16:50 谷本雅之   東京大学   日本経済史
16:50-17:20 松沢裕作 慶應義塾大学 日本近代史「手なづける手は見えるのか――日英比較を通じて」

17:20-17:40 休憩

17:40-18:30 ラウンドテーブル  司会・金澤周作 京都大学 近代イギリス史

閉会7時

登壇者プロフィール(登壇順)
坂本優一郎(さかもと・ゆういちろう)関西学院大学文学部教授。研究分野はイギリス近世・近代・現代史。著書に『投資社会の勃興――財政金融革命の波及とイギリス』(名古屋大学出版会、2015年)。

岸本美緒(きしもと・みお)お茶の水女子大学名誉教授・東洋文庫研究員。研究分野は中国明清社会経済史。著書に『清代中国の物価と経済変動』(研文出版、1997年)、『明清交替と江南社会』(東京大学出版会、1999年)など。

松沢裕作(まつざわ・ゆうさく) 慶應義塾大学経済学部准教授。研究分野は日本近代史。著書に『生きづらい明治社会』(岩波ジュニア新書、2018年)、『自由民権運動』(岩波新書、2016年)、『明治地方自治体制の起源』(東京大学出版会、2009年)など。

金澤周作(かなざわ・しゅうさく) 京都大学大学院文学研究科教授。専門分野は近代イギリス史、福祉史、海事史等。著書に『チャリティとイギリス近代』(京都大学学術出版会、2008年)、編著に『海のイギリス史』(昭和堂、2013年)、論文に’’To vote or not to vote’: charity voting and the other side of subscriber democracy in Victorian England’, English Historical Review, vol.131 no.549 (2016)。

主催 東京大学大学院経済学研究科 Political Econmoy Tokyo Seminar

お問い合わせ
 info@horinouchi-shuppan.com
 koji.yamamoto21[at]gmail.com

追加の情報が入り次第、また更新してお知らせいたします。

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"Taming Capitalism before its Triumph"はオックスフォード大学出版局(日本支社)のHPでご購入頂くと、参考価格(税込)12,355円が割引価格(税込)8,649円にてご購入頂けます。シンポジウムの前にお読み頂けると、よりシンポジウムが理解・楽しめると思いますのでぜひご覧ください。

オックスフォード大学出版局(日本支社) "Taming Capitalism before its Triumph"

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山本浩司(やまもと・こうじ)
東京大学大学院経済学研究科准教授。研究分野は西洋経営史、イギリス近世史等。英国ヨーク大学で歴史学博士号を取得後、セントアンドリュース大学、エジンバラ大学に所属し現在に至る。2014年秋までキングス・カレッジ・ロンドン歴史学部にて英国学士院特別研究員、ケンブリッジ大学人文社会科学研究所(CRASSH)研究員を経て現職。

東京大学紹介ページ

リサーチマップ

【出演】「越境者としてのパーソナル・ヒストリー」 TEDx Tokyo TEDxTokyo yz ver. 2.0 〜越境者〜(2011年10月)

【対談記事】「技術革新と資本主義——“Project”の起源とこれからの企業のあり方山本浩司×岡村周実(日本IBM




#DerridaToday2018 リポート/吉松覚氏/若手研究者が国際カンファレンスに参加する意義2

カナダのモントリオールでカンファレンス「6th Derrida Today Conference 2018 – CFP」が2018年5月23~26日に開催されました。翻訳『ラディカル無神論 デリダと生の時間』(法政大学出版局』などでご活躍の研究者、吉松覚さんにカンファレンスの様子とご自身の研究などについてお伺いしました。

 カナダのデリダ・トゥデイでの発表、おつかれさまでした。これからそのご発表についてお伺いしたいのですが、まずは吉松さんご自身のことをお伺いしても良いでしょうか。

 1987年生まれで、京都大学卒業後、そのまま京大の大学院に進学しました。学振の特別研究員に採用されて、博士課程2回生の秋からパリ西大学に留学しました。そこで修士課程を終えて、今はフランス政府給費留学生として引き続きパリ西大学の博士課程に所属しています。専門はフランス思想と現代哲学です。

 ご専門については、どういう経緯で決められたのでしょうか。

 遡ると15年くらい前になります。高校1年生のときに現代文の宿題をしていて夜更かしをしているときに気分転換にテレビをつけてみたところ、フジテレビ系列の『お厚いのがお好き?』という、身近なもので哲学書を解説する番組がやっていました。確かそのとき見たのはソシュールの『一般言語学講義』の回だったと思います。それで面白いな、と思い当初は大学に行ったらソシュール言語学をやりたいなと思っていました。他にもドゥルーズガタリの『アンチオイディプス』の回があったのですが、放映後に高校の図書室で『アンチオイディプス』を見つけて開いてみたのですが、全くわからなくて(笑)。フロイト読まずにこれを読んだので、やれシュレーバー控訴院長だの、やれ〈それ(サ)〉だの言われても、という感じで。ただ、その後現代文で鷲田清一さんや、柄谷行人さん、野家啓一さん、大澤真幸さん、坂部恵さんといった方々の文章を読み、思想って面白いなと思ったのがきっかけでしたかね。それでも学部に入ったらその志もどこへやらという感じで遊んでしまい、もっと勉強しておけばよかったと今になって後悔しています。

 バランスだと思いますが、学生時代の楽しさもあると思いますので、遊ぶことも大事だと思います(笑)。国外への進学はすぐに決められたのですか? また準備というか、アドバイスは周囲からあったのでしょうか。語学は得意でしたか?

 そんなこんなで学部に入った頃から研究者を考えていたので留学についてはぼんやりと、博士課程のうちに行くのかな、と思っていました。ただ、当時はどのような先生がいるのかもわからずパリ第8大学やパリ第4大学のサイトを見ては、特に何も具体的なことが見えてこないまま、という感じでした。文学部の仏文科にも出入りしていたのですが、修士課程のときに仏文の仲の良い先輩から後にパリでの指導教官となるペーター・サンディさん(注・現ブラウン大学比較文学科教授)を紹介してもらい、それから2年間かけてペーターさんと留学の打ち合わせなどをしました。
 語学については受験英語は得意だったのですが、大学受験のときからリスニングは苦手で、フランス語でも聞き取りは苦手でした。そのため留学直前の半年くらいは、France2という国営放送のサイトでニュース映像を見て内容を毎日まとめたり、France Cultureというフランスのインターネットラジオで哲学の講座を聞いたり、あるいはよくCMで見るような聞き流しも、しないよりはましと思い暇を見つけてはBGM代わりにフランス語の映像やラジオを流したりと泥臭くやりました。語学が得意でなくてもしっかり努力すればその言語のリズムが染みついてきて、なんとかやっていける程度にはなれると思います。あとはフランスに来たら好むと好まざるにかかわらずフランス語にさらされ続けるので、フランス語の伸びは日本にいたとき以上のものになると思います。

 ありがとうございました。さて、デリダ・トゥデイの報告に関してですが、まずこの団体についてご紹介頂けますでしょうか。ホームページ(http://derridatoday.com.au/)を見ると、オーストラリアで二人の研究者が2008年に設立、マッコーリー大学のシンポジウムから始まったとあります。ジャーナルも発行しているようですが、これはいわゆる学会なのでしょうか。

 そうですね、学会の定義によると思います。日本だと会員制で、年会費を払ってそれがジャーナル出版や会場費、人件費に当てられるので当日の参加費が低く抑えられています。それに対しデリダ・トゥデイは会員制ではないため、毎回参加者が日本円で1〜2万円程度の参加費を払って参加します。フランスでもコロキウムやカンファレンスはそのたびごとにテーマ別で形成されるので、会員制を取らないことがほとんどだと思います。ただ欧米式だとより開かれた学会になる反面、一回参加して参加者とそれ限り会わないということも起こりうるので、会員制は一概に良し悪しは言えません。そういう意味で、日本における学会と持つ意味が異なっている気もします。

そもそも日本とは学術団体や発表の場の主な運営方法が異なるということですね。参考までに、デリダの他の主要な学会があれば教えてください。また、海外へいきなり参加は難しいと思うので、国内でデリダの研究にアクセスしたい場合、例えばこれから勉強を考えている学部生・修士生、研究に興味のある一般の方が参加(見学)できる学会や発表の場があれば教えてください。

 国外を見ても、デリダをめぐってこのように定期的にカンファレンスを開くのはなかなかないですね。強いてあげるなら私が今参加しているパリでのデリダの読書会Lire Travailler Derridaくらいでしょうか。この団体は数年前にパリを中心にデリダを読む大学院生が立ち上げた団体で、年度ごとに読む本を決めて講読しています。今年度後半はLa carte postale所収の « Spéculer—sur Freud »を、今年度前半と昨年度は死刑論セミナー2つ、その前がGlas、さらにその前が『友愛のポリティックス』でした。私も先月« Spéculer »の第3節のレジュメを切りました。それでそれぞれの本を読み終えると研究集会を開き、メンバーの希望者が口頭発表をします。今年も6月末に死刑論のワークショップがありますね。
 それ以外は定期的なカンファレンスを開く団体は聞いたことがないですね。国内であれば発表者を公募する学会だと日仏哲学会や表象文化論学会、日本フランス語フランス文学会、日本哲学会あたりはたまにデリダについての発表を見ますね。日本現象学会や宗教哲学会でも場合によってはデリダについての発表があるかもしれません。国内外問わず著名な研究者の招待講演という形なら脱構築研究会がほぼ毎年何かしらのイベントをやっています。こちらも開かれた会なので、一般の方も聞きにいらっしゃることはできると思います。

吉松さんはこのカンファレンスに参加されるのは何回目でしょうか。またこの団体を知ったきっかけはなんでしょうか。

 参加は三度目、発表者としては二度目でした。デリダ・トゥデイは修士課程の頃に宮﨑裕助さん、西山雄二さんがカリフォルニア大学アーヴァイン校での大会の様子をtwitterで伝えているのを見て、いつか行ってみたいなと雲の上の世界のように思っていました。翌年に立命館にフランス人のヘーゲル研究者が講演にいらしたさいに、その方を日本に招いた西山さんから懇親会の席で「きみ、来年のデリダ・トゥデイ来ない? 来年ニューヨークなんだけど」と誘われ、とにかく様子だけ見に行こうと思い参加したのが始まりですかね。そのときはいわばお客さんとしての参加だったのですが、私が共訳を企画して昨年翻訳が出た『ラディカル無神論』(法政大学出版局)の著者のヘグルンドさんと直接お話しできたり、いま草稿調査を行っているデリダの講義録『生死〔La vie la mort〕』の存在を知れたりと、刺激を受けることができました。それでその次のロンドン大会は発表にアプライしてみようと思い立つにいたりました。

今回はどのような発表をされたのですか。

 まさしく『生死』講義のなかのある箇所でフランシス・ポンジュの『寓話』という詩を分析しているのですが、そこでの分析と他の著作でデリダがこの詩に対して行っている分析を比較し、デリダにおいて生命の起源という不可能な問いはいかに答えが与えられうるのか、という発表でした。パネルを組織し、立命館大学の亀井大輔先生、大阪大学日本学術振興会の小川歩人くんと3人での発表でした。

会場の反応はいかがでしたでしょうか。

 諸般の事情から発表の3週間くらい前に発表テーマを変更したので、終始綱渡り状態でした。それでも、この草稿の第一人者で、最近"Biodeconstruction"(SUNY PRESS)という本を上梓されたフランチェスコ・ヴィターレさんに発表後の昼食の席で「Très bien !」とお言葉をかけていただいたのと、初日の最初のパネルのなか30人程度の教室に立ち見が出るほどの聴衆で、のちに何人かの参加者から「発表面白かったよ!」と声をかけていただけたので、結果オーライという感じでしょうか。会場での質疑応答も小川くんを中心に白熱して、パネル全体としてもうまく行ったように思います。この試みに乗ってくれた亀井先生、小川くんには感謝です。

 他の方の発表で、面白かったものなどありますか?

 基調講演は大御所の発表だけあって聞き応えのあるものが多かったですが、特にド・ポール大学のエリザベス・ロッテンバーグさんの精神分析脱構築についてのご講演とベルリン芸術大学のアレクサンダー・ガルシア=デュットマンさんの差延についてのご講演は自分の研究テーマと近く、刺激的でした。公募発表だと先に言及したヴィターレさんのオートポイエーシスに関わるご発表、あと近々私も取り組みたいと思っている、デリダシャンタル・ムフの比較研究の発表などもあって、興味深く拝聴しました。

 その他に滞在全般において印象に残ったことなどあれば教えてください。

 滞在全般ですか。そうですね、モントリオールケベックの中心地ということもありフランス語が通じる地域だったのが印象的でした。道の看板なんかもフランス語で。私は英語よりかはフランス語の方がまだ話したり聞いたりができるのでありがたかったです。そのような街での開催とあって今回のデリダ・トゥデイは初めての英仏バイリンガル開催でした。それもあってヨーロッパからの参加者の顔ぶれが変わった気がします。次回はマルセイユでの開催ですし、このバイリンガル開催は今後も続けていってほしいですが、開催がフランス語圏に限定されるのでその次以降は難しいかもしれません。
 最後にデリダ・トゥデイはデリダの専門家だけでなく、デリダ以外の研究をしている人でもデリダ(もしくは他の脱構築の思想家たち)を参照する発表をして歓迎されています。また、修士課程や博士課程の早い年次の学生も多く発表者として参加しています。ですので日本の皆さまも、少しでも脱構築思想に興味があれば参加を考えてみてください。きっと新たな発見に恵まれた4日間になると思います。

ありがとうございました!

インタビュアー 小林えみ

吉松覚(よしまつ・さとる) Université Paris Ouest, Nanterre la Défense博士課程在籍。1987年生まれ。翻訳に『ラディカル無神論 デリダと生の時間』(法政大学出版局、2017年)等、主な論文に«The Time is out of Joint »--sur l'imminence de la justice chez Derrida, 2016 等。
リサーチマップ

吉松さん専門分野で初学者にお薦めの本3冊

1:高橋哲哉デリダ 脱構築と正義』、講談社学術文庫、2015年
2:マーティン・ヘグルンド『ラディカル無神論 デリダと生の時間』吉松覚・島田貴史・松田智裕訳、法政大学出版局、2017年
以上二つを読解すればデリダがどのような問題意識を持った思想家かある程度つかめると思います。東浩紀さんの『存在論的、郵便的』(新潮社)も素晴らしい著作であることに間違いなのですが、『批評空間』をはじめとした日本の批評の磁場を知っていないと難しいかもしれないと思い、今回は泣く泣く推薦書には含めませんでした。『存在論的、郵便的』は上記二冊に加えて宮﨑裕助さんの『判断と崇高 カント美学のポリティクス』(知泉書館)を読んでから読むと面白い発見があるのではないかと思います。
3:ジャック・デリダ差延」、『哲学の余白 上』、高橋允昭・藤本一勇訳、法政大学出版局、2007年
上にあげた2(+2)冊が優れたデリダ研究書であることは論を俟たないことですが、やはりデリダ本人のテクストを読まなければ意味がありません。「差延」論文はデリダ自身の思想のさまざまなモチーフが紙背にひそんでいます。ニーチェハイデガーフロイトレヴィナスヘーゲルソシュールら、デリダのみならず現代思想に影響を与えた思想家が言及され、「差延」、「間隔化」、「イメーヌ」、「パルマコン」、「エコノミー」、「痕跡」などデリダにおける主要な概念も多く論じられています。短いテクストながらもこれだけの要素があるので、私自身未だに解釈がしきれない箇所もあります。それでもデリダの思考がもつリズムや息遣いを、この圧倒的な情報量と熱量を含んだテクストのうちに感じてもらえたら、きっとデリダをさらに読みたくなっていることと思います。