《イベント》 大阪市立大学 #Marx200 記念シンポジウム

マルクス生誕200周年を記念したシンポジウムが開催されます。

日程 2018年11月24日(土)
時間 14~18時
会場 大阪市立大学学情センター1階文化交流室(アクセスマップ、住所:〒558-8585大阪市住吉区杉本 3-3-138、最寄り駅:JR「杉本駅」より徒歩約5分、地下鉄「あびこ駅」徒歩20分、「あびこ駅」からタクシー1メーター分程度)

入場無料、申込不要

資本論』第一巻 初版(福田文庫所蔵)特別公開あり

プログラム
 14:00~14:45 斎藤幸平「日本『資本論』物語―解釈としての翻訳」
 14:45~15:30 廣瀬 純「「コミュニズムという幽霊」の現在」
 15:30~15:45 休憩
 15:45~16:30 結城剛志「アナザーマルクス―21世紀のマルクス研究の地平」
 16:30~17:15 百木 漠「いまマルクスを読む意味」
 17:15~18:00 ディスカッション
 各発表は講演30分、質疑応答15分を予定しています

登壇者プロフィール(50音順)
斎藤幸平(さいとう こうへい)大阪市立大学大学院経済学研究科・経済学部准教授。著書に"Natur gegen Kapital Marx’ Ökologie in seiner unvollendeten Kritik des Kapitalismus",Campus Verlag, 2016. 他。

廣瀬 純(ひろせ じゅん)龍谷大学経営学部教授。専門は現代思想・映画批評。著書に『シネマの大義』『資本の専制、奴隷の叛逆』『暴力階級とは何か』『絶望論』『シネキャピタル』『蜂起とともに愛が始まる』『アントニオ・ネグリ』『美味しい料理の哲学』他。

百木 漠 (ももき ばく)
立命館大学専門研究員。アーレントマルクスを中心とした労働思想を研究している。専門は社会思想史。京都大学人間・環境学研究科博士後期課程修了。著書に『アーレントマルクス:労働と全体主義』(人文書院、2018年)がある。

結城 剛志 (ゆうき つよし)
埼玉大学大学院人文社会科学研究科准教授。1977年生まれ。東京大学大学院経済学研究科博士課程修了(博士(経済学))。著書に『労働証券論の歴史的位相:貨幣と市場をめぐるヴィジョン』(日本評論社: 2013年)他。

主催 大阪市立大学経済学会

お問い合わせ info@horinouchi-shuppan.com

資本論』第一巻 初版(福田文庫所蔵)特別公開について(追記)
11月5日(月)~12月2日(日)まで、大阪市立大学図書館内にて公開されています。大阪市立大学学生・教職員は通常の入館で御覧いただけます。
学外の方も入館は可能ですが、下記、入館のお手続きが必要となります。
  学外の方へ(学術情報総合センター)
上記イベントの際はイベント用入場として上記の一般手続きなしの入館となります。


#nyx5号 第一特集「聖なるもの」のためのブックリスト

『nyx』第5号「聖なるもの」特集の関連書ブックリストです。本特集を読む前/読んだ後の勉強や、また書店さんのフェアや関連書を並べるご参考としてご活用ください。(選書:佐々木雄大

◆ 入門――〈聖なるもの〉について簡単に知るための入門書
1.ジャン=ジャック・ヴュナンビュルジェ『聖なるもの』川那部和恵訳、文庫クセジュ、2018年。
2.華園聰麿『宗教現象学入門:人間学への視線から』平凡社、2016年。
3.金子晴勇『聖なるものの現象学―宗教現象学入門』世界書院、1993年。

◆ 起源――〈聖なるもの〉概念の形成を知るための基本書
1.ロバートソン・スミス『セム族の宗教』(上・下)永橋卓介訳、岩波文庫、1941年。
2.オットー『聖なるもの』久松英二訳、岩波文庫、2010年。/華園聰麿訳、創元社、2005年。
3.デュルケーム『宗教生活の基本形態』(上・下)山崎亮訳、ちくま学芸文庫、2014年。
4.ユベール/モース『供犠』小関藤一郎訳、法政大学出版局、1993年。
5.エリアーデ『聖と俗―宗教的なるものの本質について』風間敏夫訳、法政大学出版局、1969年。
6.ファン・デル・レーウ 『宗教現象学入門』田丸徳善・大竹みよ子訳、東京大学出版会、1979年。

◆ 展開――現代における〈聖なるもの〉理論の応用・発展
1.バタイユ『宗教の理論』湯浅博雄訳、ちくま学芸文庫、2002年。
2.カイヨワ『人間と聖なるもの』塚原史・小幡一雄・守永直幹・吉本素子・中村典子訳、せりか書房、2004年。
3.トーマス・ルックマン『見えない宗教―現代宗教社会学入門』 赤池憲昭訳、ヨルダン社、1976年。
4.ピーター・L・バーガー『聖なる天蓋―神聖世界の社会学』薗田稔訳、新曜社、1979年。
5.ルネ・ジラール『暴力と聖なるもの』 古田幸男訳、法政大学出版局、1982年。
6.メアリ・ダグラス『汚穢と禁忌』 塚本利明訳、ちくま学芸文庫、2009年。
7.タラル・アサド『世俗の形成――キリスト教イスラム、近代』中村圭志訳、みすず書房、2006年。
8.ジャック・デリダ『信と知:たんなる理性の限界における「宗教」の二源泉』湯浅博雄・大西雅一郎訳、未来社、2016年。
9.アガンベンホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』 高桑和巳訳、以文社、2007年。
10.ジャン=ピエール・デュピュイ『聖なるものの刻印 科学的合理性はなぜ盲目か』西谷修森元庸介・渡名喜庸哲訳、以文社、2014年。
11.ブリュノ・ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について:ならびに「聖像衝突」』荒金直人訳、以文社、2017年。

◆ 研究――さらに〈聖なるもの〉を詳しく知るために
1.フロイト『トーテムとタブー』須藤訓任・門脇健訳『フロイト全集』第12巻、岩波書店、2009年。
2.フランツ・シュタイナー『タブー』井上兼行訳、せりか叢書、1970年。
3.ヴィンデルバント『歴史と自然科学・道徳の原理に就て・聖―「プレルーディエン」より』 篠田英雄訳、岩波文庫、1929年。
4.シェーラー『倫理学における形式主義と実質的価値倫理学』吉沢伝三郎・飯島宗享・小倉志祥訳『シェーラー著作集』第1~3巻、白水社、1976~1980年。
5.バンヴェニスト『インド=ヨーロッパ諸制度語彙集 2 王権・法・宗教』 前田耕作・蔵持不三也他訳、言叢社、1987年。
6.ヨハン・フリードリヒ・ハイラー『祈り』深澤英隆・丸山空大・宮嶋俊一訳、国書刊行会、2018年。
7.ロベール・エルツ『右手の優越―宗教的両極性の研究』吉田禎吾・板橋作美・内藤莞爾訳、ちくま学芸文庫、2001年。
8.ジョルジュ・デュメジルデュメジル・コレクション』第1巻、丸山静・前田耕作訳、ちくま学芸文庫、2001年。
9.ドゥニ・オリエ編『聖社会学』兼子正勝・中沢信一・西谷修訳、工作舎、1987年。
10.レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫訳、みすず書房、1976年。
11.藤原聖子『「聖」概念と近代―批判的比較宗教学に向けて』 大正大学出版会、2006年。
12.江川純一『イタリア宗教史学の誕生:ペッタッツォーニの宗教思想とその歴史的背景』勁草書房、2015年。
13.奥山史亮『エリアーデの思想と亡命』北海道大学出版会、2012年。
14.『岩波講座 日本の思想 第8巻 聖なるものへ』岩波書店、2014年。
15.『岩波講座 現代社会学 第7巻 〈聖なるもの/呪われたもの〉の社会学岩波書店、1996年。

#nyx5号 第二特集「革命」主旨文公開

 「政治」という言葉で、何を思い浮かべるだろうか? 民主主義、選挙、国会、デモ……かつては、そのリストのなかに間違いなく「革命」も含まれたにちがいない。だが近年、政治と革命が正面から論じられることは稀になっている。じっさい、昨年はロシア革命一〇〇周年であり、今年はマルクス生誕二〇〇年、一九六八年の五月革命から半世紀であるにもかかわらず、革命がそれほど注目されているようにはみえない。「現存社会主義」であったソ連が崩壊し、九〇年代以降グローバル資本主義の勝利が叫ばれるなかで左派は影響力を失い、革命をめぐる言説や実践は背景に退いていった。一般的なイメージでは、革命はヘルメットとゲバ棒を身に着けて、バリケードを築けば、社会が変わると考える馬鹿げた妄想と捉えられているのかもしれない。トランプの当選、ブレグジット、安倍政権の暴走といった現代政治の文脈で重要なのは、そのような妄想ではなく、民主主義の制度設計であり、立憲主義だというわけだ。もちろん、そうした指摘の正しさは疑いようがない。だが同時に、ここで念頭に置かれている「革命」の表象はステレオタイプに満ちていて、貧しい。
 歴史においては、革命はより切迫した問題であり、思想もまた革命を繰り返し扱ってきた。ヘーゲルフランス革命レーニンロシア革命アーレントアメリカ革命、フーコーイラン革命など、いくつもの例をあげることができるだろう。革命は自由と平等を論じる際に不可欠な役割を果たしてきたのみならず、主権、暴力、民主主義をめぐる様々な問い誘引してきたのである。
 革命は暴力的で、破壊的である。だからこそ、人々はそれを民主主義との関連で論じることを望まないし、革命などというものが存在することも認めようとしない。それは左派でさえもそうである。マルクス主義の影響を受けたエルネスト・ラクラウやジャック・ランシエールといった左派は「ラディカル・デモクラシー」を唱え、ユルゲン・ハーバマスに代表される熟議型民主主義を批判している。だが他方で、政治的なものを「出来事」としてとらえていることによって、革命はもはや革命として論じられることなく、デモクラシー内部での出来事へ解消されてしまう。革命はそのポテンツを剝奪され、デモクラシーという名のもとで馴化されているのだ。こうした革命の否認には、独裁やテロルといったやっかいな否定性が革命にとり憑いており、そのことがデモクラシーとの緊張関係を生んでいるという事実に対する暗黙の承認があるのかもしれない。だが、このような否定性から目を背けてはならない。このような否定性は、既存の社会的諸関係にはとらわれない、別の社会のあり方の可能性を示唆してもいるのだから。
 われわれはソ連崩壊後、革命なきポスト共産主義の時代に生きてきた。だが人類史的にみれば、革命の時代はいつ回帰してきてもおかしくない。事実、世界的にみれば、オキュパイ・ウォールストリート、15M運動、アラブの春といった新たな運動の台頭をめぐって、「革命」が再び論じられるようになっている。そのような現状も踏まえ、本特集は、革命の思想史を辿ることによって、自由や平等をめぐる問いを歴史的に再構築していくことにしたい。

斎藤幸平

『nyx』第5号(2018年9月20日発売)

斎藤幸平 一九八七年東京生まれ、大阪市立大学経済学部准教授。著書にNatur gegen Kapital: Marx’Ökologie in seiner unvollendeten Kritik des Kapitalismus(Campus Verlag, 2016.) 等。

#nyx5号 第一特集「聖なるもの」主旨文公開

 宗教の本質、世俗を超越した次元、人間の生における至上の価値、いわく
言いがたい深遠にして崇高なもの―、ひとはおよそこれらのものを〈聖な
るもの〉と呼ぶ。
 〈聖なるもの〉(the sacred, le sacré, das Heilige)とは「聖なる」を意味する形容詞sacred, sacré, heiligを実詞化したものであり、その対義語は「俗なるもの」(the profane, le profane, das Profane)である。それは一般的に宗教の領域に属するものや日常の秩序から隔絶したものを指すために用いられる。具体的に言えば、神、聖域、教会や寺社仏閣、聖人や人格一般、宗教的儀礼、芸術作品といったもののうちに〈聖なるもの〉が認められる。
 とはいえ、〈聖なるもの〉という概念はこれまであまりにも無反省に用いられてきた。それは一方で、一九世紀から二〇世紀にかけて歴史的に形成されてきた概念であるにもかかわらず、その経緯は顧みられることなく、あたかもア・プリオリであるかのように自明視されている。〈聖なるもの〉は宗教的なものを規定する本質(オットー、デュルケーム)だとか、世界を秩序付ける実体(エリアーデ)だといったように扱われてきたのである。
 それはまた他方で、芸術やエンターテイメントを批評する際に、あるいは、特異な体験を表現する際に、何らか神秘的なものや超越的なもの、言語化不可能なものを指さ すために用いられることもある。そのとき、〈聖なるもの〉という語は、その内実を十分に分別されることなく、何でも放り込める「ゴミ箱概念」としてしばしば便利に使われてしまう。
 しかし、古くは宗教現象を研究するために「聖」概念は必要ないとしたペッタッツォーニや、「宗教」概念は西洋近代的なものにすぎないとする近年の宗教概念批判(J・Z・スミスやT・アサドら)を通じて、そうした素朴な〈聖なるもの〉理解がもはや失効していることは、宗教学においては周知の事実である。
 では、こうした議論を踏まえた上で、それでもなお〈聖なるもの〉という
概念は人間や社会、宗教にとって重要な意義をもちうるのだろうか。それと
も、単なる虚構にすぎず、捨て去られるべきなのか。もし仮に世俗化の時代
とされる現代にあっても何らかの可能性が残されているとするなら、それは
どのような途でありうるのだろうか。
 本特集では、〈聖なるもの〉を実体として前提とすることなく、あくまでも歴史的に形成されてきた概念として批判的に検討する。まず、〈聖なるもの〉をめぐる一般的な学説史を確認した上で、次に、哲学、神学、宗教学、解釈学、社会学文化人類学表象文化論、認知宗教論、日本思想史といったそれぞれの見地から、この概念を反省的に捉え返し、さらにその先へと議論を展開していく。このように根源的に問い直すことを俟って初めて、現代社会における〈聖なるもの〉の限界と可能性も明らかになるだろう。

江川純一・佐々木雄大

『nyx』第5号(2018年9月20日発売)

江川純一 一九七四年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科助教。専門は宗教学宗教史学。著書に『イタリア宗教史学の誕生―ペッタッツォーニの宗教思想とその歴史的背景』、共編著に『「呪術」の呪縛【上・下巻】』等。

佐々木雄大 一九七八年生まれ。日本女子大学助教。専門は倫理学。論文に「バタイユにおける聖と俗の対立の問題」 『倫理学年報』二〇一八年。「タブーは破られるためにある―エロティシズムにおける禁止と侵犯」『nyx』二号、二〇一五年、「〈エコノミー〉の概念史概説―自己と世界の配置のために」 『nyx』創刊号、二〇一五年、等。共著に『近代哲学の名著』中公新書、二〇一一年、『現代哲学の名著』中公新書、二〇〇九年、等。


『nyx』第5号刊行予告

8月末本出来予定、9月上旬から流通開始予定となります。

『nyx』第5号 書誌情報


【第一特集「聖なるもの」 主幹:江川純一×佐々木雄大】佐々木雄大 序文「〈聖なるもの〉のためのプロレゴメナ

江川純一×佐々木雄大 対談「〈聖なるもの〉と私たちの生」

馬場真理子「空虚な「聖なるもの」」
原俊介「オットーの聖なるものと魂の根底(Fundus Animae, Seelengrund)――ドイツ神秘主義と近代認識論(心理学・論理学・美学)の系譜から」
江川純一「ペッタッツォーニの「サクロロジア」」
佐々木雄大「堕天使と悪魔の諍い――カイヨワとバタイユとの〈聖なるもの〉の差異」

ミルチャ・エリアーデ、奥山史亮 訳「原始神話体系」
奥山史亮「原始神話体系」解題

溝口大助「聖なるものと事物――デュルケム学派における聖なるもの」
橋本一径「イメージと聖なるもの」
藤井修平「宗教認知科学CSR)における脱神秘化された「聖なるもの」」

ドミニク・ヨーニャ=プラット、小藤朋保 訳「聖――形容語から実詞」
ダニエル・エルビュ゠レジェ、田中浩喜 訳「社会学者と聖なるもの」
鶴岡賀雄「「聖なる(もの)」という言葉を使うために」

鴻池朋子×江川純一 対談「アート・魔法/呪術」

【第二特集「革命」 主幹:斎藤幸平】
深井智朗「宗教改革は「革命」なのか」
鳴子博子「ルソーの革命とフランス革命――暴力と道徳の関係をめぐって」
石川敬史「収斂としてのアメリカ革命」
斎藤幸平「革命と民主主義――マルクス対ポスト・マルクス主義
塩川伸明「ポスト社会主義の時代にロシア革命ソ連を考える」
酒井隆史「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて――コミュニズムはなぜ「基盤的」なのか?

マルクス・ガブリエル来日関連記事】
千葉雅也×マルクス・ガブリエル 対談 「新実在論」「思弁的実在論」の動向をめぐって
マルクス・ガブリエル、加藤紫苑 訳 「なぜ世界は存在しないのか――意味の場の存在論と無世界観」

【単発記事】
飯田賢穂 レポート「なぜ、哲学なのか? 発言する哲学、越境する哲学」

大学・大学院からの留学/河南瑠莉氏/海外進学のススメ

河南瑠莉さんは、現在ベルリン・フンボルト大学の文化科学研究科修士課程に在籍されています。1990年東京生まれで、早稲田大学、ベルリン自由大学で政治経済学・文化政策を学んだ後、現在に至ります。博士課程からの留学などは研究者でよくみられるキャリアですが、大学卒業後の海外進学、修士も海外で、というプロセスは一般にあまり情報が知られていないではないでしょうか。海外進学へ至った道のりと現在の学業についてお話をお伺いしました。

 早稲田大学を卒業されたあと、なぜフンボルト大学へ行くことになられたのでしょうか。

 日本の大学院への進学を考えていた時もあったのですが、私の希望していた文化研究(Kulturwissenschaft)という少し変わった研究アプローチがそもそもドイツ特有のものであったという研究上の理由と、また学費のかからないドイツであれば比較的少ない費用でも渡航できたからという現実的な理由があります。
 日本の学部時代から、ドイツの学術関連の出版社ズーアカンプ(Suhrkamp)社の学術書を愛読しており、そこで所謂伝統的なディシプリンである「美術史」や「文学研究」、英米圏における「カルチュラル・スタディーズ」とも異なる独自の研究のあり方を知り、これまでにない知的な興奮を覚えることがありました。それ以来フンボルト大学はじめドイツ国内の幾つかの大学にコンタクトを取っているうちに、ドイツへの進学が具現化されていきました。

 語学はどのように勉強されたのでしょうか。

 高校の一時期をベルギーの現地校(オランダ語)で過ごしたことがあったため、ドイツ語に関しては比較的困難を感じることなく勉強できました。しかし周りを見ていても、帰国子女だから有利だとか、外国語における言語運用能力が格段高いとかいうことはありません。むしろ研究レベルで使える外国語運用能力を身につけるには、母国語における読み書き能力、論理的思考の基盤の有無の方が重要になるのではないでしょうか。ドイツの大学では読書量・執筆量が圧倒的に多いので、言語に関しては否が応でも鍛えられてしまう環境があると思います。

 ご専門の文化研究(Kulturwissenschaft)という分野について、もう少し教えてください。

 ドイツ的な「文化研究」とは、文学研究や美学美術史、はたまた民族(俗)学や歴史研究と対象をある程度同じとしているものの、何が違うのかというと、先ほどの言葉を使えば「研究のあり方」に要約されると思います。非常に極端に言ってしまえば、ドイツにおける「文化研究」とは、ある特定の文化そのものにまつわる分析をするのではなく、「文化」や「社会」などという人文学が当たり前のように「対象」としてきたものがいかなる偶発性の中で構築されてきたのか、その所以を歴史的・哲学的にたずねていこう、という認識論的な研究になると思います。ドイツの学者アンドレアス・レックヴィッツ(Andreas Reckwitz)はラディカルにも、「文化研究」の直接の対象は「文化ではない」とさえ言っているくらいです。 (もちろん何をもって「文化科学」と規定するかはドイツ国内でも決着がついていない部分があり、ディシプリンの根源を問う行為そのものが「文化科学」的なアプローチであるとも言えます。そのようなパースペクティブの複数性を反映して「文化科学」をKulturwissenschaftenと複数で表記する場合も多くあります。レックヴィッツの立脚点についてはこちらを参照ください。Die Kontingenzperspektive der „Kultur“ – Reckwitz, in: Friedrich Jaeger/Jörn Rüsen (Hg.): Handbuch der Kulturwissenschaften, Band III: Themen und Tendenzen, Stuttgart/Weimar 2004, S.1-20)
 私の場合、文化研究の中でも専門を「美術館・博物館学」としておりますが、特にドイツ系・メディア論の影響が濃厚な先生方のもとで指導を受けてきたことが専門分野を選ぶ経緯となったと思います。個々の作品の美学的価値ももちろんですが、むしろそれよりも作品に価値を付与してしまうメディウムとしての「ミュージアム(美術館・博物館)」、あるいはこうした媒体が行使する「エクリチュール(批評・論文)」という文化的技術が、西洋において形成されてきた過程を自明の歴史としてではなく特殊・偶発的なものとして捉え直すことに関心がありました。ですので、たんに「美術の歴史」や「博物館の歴史」といったディシプリン内在的な問い立てではなく、それが一つの知のエピステーメとして構成され(得)る状況を探るドイツ的な「文化研究」に強く惹かれたため、今の研究科に在籍するに至りました。

 留学に関して、ご家族など周囲の方はどのような反応でしたでしょうか。

 ちょうど周りの学生が新卒である程度良い条件下で就職していく中、進学すること、しかも2年で修了できるのかわからない外国での学位取得を目指すという私のプランを、周囲はあまり具体性あるものだとは思ってなかったのではないでしょうか。MBAなどビジネスに直結するタイプの学位や、医師免許など国家資格が取得できる学位など、目に見える形でのアウトプットがない研究分野でしたので、尚更「なぜ・いま・あえてドイツ」へいく必要があるのか周りから理解してもらうのは難しかったです。幸か不幸か家族からは進路については無干渉でしたので、反対はされませんでした。

 留学の情報はどのように集められたのでしょうか。また、日本の大学や国、周囲の支援はいかがでしたか。

 海外進学については全て自分で情報を集めました。日本の大学では、学内の制度を活かした「交換留学」についてはサポートが充実しているのですが、国外への「進学」となるとなかなか難しいようです。さらに英語圏以外の大学となると、日本の大学にとっても未知数の部分が多いので、私を含め周りの学生もみな、自分で情報収集していたと思います。最近では、文部省の「トビタテ留学」など、日本国内でも海外進学を奨励する制度が整ってきているようですね。
 また、「留学」といいましても、実は私はドイツの大学側からすると「留学生」ではありません。一般の「学生」だけど、たまたま外国籍だったという扱いですね(人口の4人に1人が外国人だと言われているドイツでは、学生の国籍が外国であるということは特別なことではありません)。これは何を意味するかというと、進学の段階にあっても普通の学生と同様に自分で情報を集め、必要であれば受験(研究計画の提出など)をし、受理されたら研究科の要綱に沿って独自の研究スケジュールを計画する、ということです。一部の大学では「外国人学生受入枠」もあるようですが、無い場合は現地の学生と同じ条件での受け入れになります。なので、かなり早い段階で進学希望先の教授にコンタクトをとり、ビザや滞在許可についても各自で大使館などに条件を問い合わせておくことを勧めます。
 私の研究科は受入条件が厳しく、日本の学位や学士時代の成績は認定されたものの、それがドイツの大学と同等の勉強の質を客観的に証明するものではないとの理由で一度は受験を拒否されたり、ハプニングもありました。そのほか制度的な面で問題は諸所あったのですが、ドイツでも日本でも個人的に面識のある先生方からは推薦状を書いてもらうなど非常に親切に対応・応援していただきました。

 なぜ「留学」制度ではない形をとられたのでしょうか。

 ドイツの大学で「留学」というのは、ドイツ国外の大学に所属している学生や研究者がなんらかの派遣プログラムを通じてドイツに数年滞在する形を指すことが多いと思います。ドイツで「留学生」になるには、日本の大学院に在籍しながら単位の一部をドイツの大学で取得するという形が一般的になるのではないでしょうか。確かに留学というのは制度的にコーディネートされているので、派遣・受入の手続きが比較的にスムーズだと思います。受入先でも、あらかじめ担当教員が決まっていたり、ドイツの大学生活を上手くスタートできるように特別のカリキュラムが組まれていたり、「留学センター」などが住居や生活面でのサポートをしてくれることも多いと思います。
外国籍であろうとドイツ籍であろうと一般の「学生」にはそのような特別なサービスはありませんが、その代わり日本の大学を通さずとも正規の学生として現地の教授陣の指導を直接仰ぐことができます。研究分野にもよると思いますが、私の場合は厳密な意味での文化研究がドイツ特有の研究領域であったため直接進学する形を選びました。また進学すれば、ドイツの学生であるので学費が無料になるだけでなく、ドイツの学生や研究者を対象にした研究予算を申請して研究することが可能になります。私も2年前、学内で一時的に批評のプラットフォームを共同で立ちあげたのですが、これも一部フンボルト大学の研究予算で運営し、国際シンポジウムなどを開くことができました。

 今の生活で良いところ、また反対に大変なところはどういったところでしょうか。

 私は事情あって、進学と同時に働きながら大学院に通うことになりましたので、素早く学位を取得し帰国なり博士なり次のステップに行くということはできませんでした。初めは自分の勉強・研究に充分な時間を取れないことに対しフラストレーションを感じることもありましたが、その分ドイツで働き、研究や仕事を通じて多くの方とお会いすることができ、今まで知らなかった働き方や専門分野などたくさんの可能性を見つけることができました。学部時代にはじめて渡独したのが2011年、それ以来ドイツ社会も劇的に変わりましたし、自分自身のライフステージにも変化がありましたが、紆余曲折したからこそ、結果として大学で時間を過ごす以上にドイツという国の文化、ドイツ人の生活や労働の価値観を間際に感じながら生活することができたと思います。

そちらでの勉強の様子、大学の様子などを教えてください。

 大学院なので授業はあまり多くなく、各自の研究が中心となってきます。授業は演習やセミナーが中心で、20枚程度のゼミ論文を6本ほど提出すれば一応、修士論文を残して「必修単位」は比較的早く取得できてしまいます。が、学生はみな自主的に研究グループを作ったり、インターンシップをしたり、かなり忙しく過ごしているように思います。私の場合も始めの2年で単位取得はしておりますので、あとは学生研究アシスタントとして働いたり、ほかにも幾つかプロジェクト単位で働いたりしながら、基本的には図書館で修論を書いて日々過ごしております。卒業の時期も9月に一斉卒業というようなことはなく、個人のスケジュールで動いていますから、大学内では「同期」「ゼミ生」といったユニットはあまりありません。
 日本で研究をしていると、外国の見識を得るということが研究者の一つのタスクでありチャレンジでもあるとも思うのですが、ドイツの大学では英語・ドイツ語・フランス語などを通じてヨーロッパの多くの国の言説が翻訳を待たずともダイレクトに入ってきます。言語の壁による受容期間のギャップが少なく、論文発表やシンポジウムを通じて同時代的な議論に直接参加できるのは大変刺激的ではありますが、言葉がわからないから近年の議論の動向を知らなかったとか、あとは翻訳版だけ読んでいて原書を読んでいない、などというのが許されない厳しさもあります。私は必ずしも原著絶対主義ではありませんが、3ヶ国語以上できて当たり前の人文系の中でフランス語がそこまでできないこと、美術史を紐解くのに不可欠なラテン語の知識を欠いていることなど、少なくとも知へのアクセスの面では日常的にハンディキャップを感じております。

 差支えない範囲で、河南さんの留学仲間・先輩方といった周囲の方の、同じように良さそうなところ、大変そうであったところなど教えてください。

 先ほど「留学」と「海外進学」において制度的な相違点をお話ししましたが、周りを見ていても、この違いは進学時だけでなく海外生活中ずっと離れない問題だと感じました。日本では、後に日本へ戻る際のキャリアを考えて、時期や目標を明確に限定した前者が勧められることも多く、制度的に保証が少なく現地に放り出されてしまう「移住」型の「海外進学」はまだまだ少数派だと聞いておりました。
 しかしドイツへ来てしまいますと、日本人も含め本当に様々な人が多様な目的でドイツに移住しています。現地の大学で学位をとることは研究者になる・ならないにかかわらず、こちらの社会で居場所を見つけるための有益な基盤となっていることは確かです。来てみてわかったことですが、ドイツの大学院に修士課程から来ている日本の人は意外と多いですね。漠然と進学するには言語的にも制度的にもハードルの高いドイツだからこそ、まわりの先輩方を見ていますと目的意識をもって充実したドイツ生活を送っている方が多いと思います。修士から博士へ行かれる方もいますし、修士を取得して現地で就職したり、事業を立ち上げたりアーティストとして活躍する方もたくさんいます。大学を出たあとで「これが正解」という生き方・働き方がない分、皆自由と責任を持ってやりたいことを追求している人が多く、見ていて励みになります。
 大変そうだなと思ったのは、家族の都合や何らかの事情で日本に帰ることを余儀なくされた時にどうするかということですね。当然日本でも、これまでの経験を活かせる職場・研究環境を探すことになるのですが、ここにきて障壁にぶつかったというお話はよくうかがいます。ドイツ人の同僚・研究者に囲まれてドイツで働き、場合によってはこちらで家族をもちながら生活していると、業種や研究が日本に直接関係あるものでない限り、日本における同業の方とのコンタクトがどうしても薄くなりがちです。また、女性であれば、年齢や子供の有無で左右されがちな日本の雇用� ��態に悩んだというお話も伺いました。外国で暮らしながらも将来帰国することを踏まえて日本との縁を構築し続けること、また、簡単に聞こえるかもしれませんが単純に日本語を忘れずに維持し続けること、これは学生や研究者にかかわらずとも「移住」型を選んだ人全てを悩ませる課題だと思います。

 後輩へのアドバイスなどあれば、お願いいたします。

 少し外国で勉学をしてみたいけれど、近い将来は日本で働くことを前提としているのなら、日本の大学に所属を残して、ダブルディグリー制度など何らかの枠組みの中で留学されるのがいいと思います。奨学金などの面でも、ドイツの研究機関に数年以上滞在してからだと日本側の奨学金への応募資格がなくなってしまうこともあるので(ポスドクなどは例外もあるようです)、自分にとって何が最適か調べておくといいと思います。
 しかし、来てみたら、現地で家族ができたり、知らなかった研究分野に出会ってしまったり、想定外のことが起こるのが常ですし、逆にそれによって日本で考えていたキャリアプランより更に大きな目標を描ける人も多いと思います。周りでもドイツの大学を出た人はある程度楽しくドイツ社会の中で居場所をみつけている人が多いので、目標があるのでしたらあまり不安に思いすぎず、おおらかに構えて進学されたらいいと思います。
 またドイツにはいわゆる大学間の「偏差値」のようなものがないので、大学ランキングのようなものは、ほとんどあてになりません。同じ大学でも研究科ごとにカリキュラムも研究予算も雲泥の差です。ドイツの大学に進学される場合は、何を学びたいのかを明確にし、どこでその分野が学べるのか、指導を仰ぎたい教授はどこに在籍しているかを基準に選ばれると良いと思います。

 ありがとうございました!

インタビュアー 小林えみ

河南瑠莉(かわなみ・るり) 1990年、東京生まれ。早稲田大学、ベルリン自由大学で政治経済学・文化政策を学んだ後、ベルリン・フンボルト大学の文化科学研究科修士課程に在籍。ベルリン森鴎外記念館の研究助手として制作・リサーチ・翻訳を担当し、常設展示の新設に携わる。近代思想史、美術館学・博物館学を専攻。訳書に『資本主義リアリズム』
リサーチマップ

ブックツリーにて選書をされています
「後期資本主義時代の文化を知る。欲望がクリエイティビティを吞みこむとき」

シノドス寄稿記事
「無数の断片の中に潜り込みながら――ドクメンタのナラティブ・テクニック」(2017年8月25日)
「空き家から生まれる「ポスト成長都市」――ライプツィヒの持続可能なハウスプロジェクト」(2017年10月27日)

マルクス・ガブリエル氏来日関連記事一覧 #Gabriel2018Japan

2018年来日時のガブリエル氏関連記事です。リンクは各社の都合できれることがありますのでご了承下さいませ。

哲学者が語る民主主義の「限界」 ガブリエル×國分対談」『朝日新聞』、2018年6月20日國分功一郎氏との対談、通訳:斎藤幸平(紙面掲載は6月29日32面)

「入門マルクス・ガブリエル」『読書人』6月29日号1面、インタビュアー:浅沼光樹、通訳:セバスチャン・ブロイ

「知識人には社会問題を語る義務がある」『神戸新聞』7月6日朝刊、インタビュー掲載

哲学的になりすぎないこと~マルクス・ガブリエル氏との対談を終えて」『現代ビジネス』7月6日、國分功一郎氏寄稿

「政治に倫理は大事なものでなくなった」 ドイツの哲学者、ガブリエルさんが語る 広がる「21世紀型ファシズム」」『毎日新聞』夕刊2面、7月6日、インタビュアー・記事:藤原章生毎日新聞