マルクス生誕200周年コメント集「いま、マルクスを読む意味」(2) #Marx200

掲載は氏名の50音順です。

大阪市立大学准教授 斎藤幸平(さいとう・こうへい)
 高校生の頃、受験勉強をして大学に入って4年のモラトリアム期間を過ごした後に、どこかの企業で65歳まで働くという目の前に敷かれたレールに漠然と違和感を抱いていた。とはいえ、大した代替案も浮かばずに、結局同級生たちと同じように大学に進学することとなった。だが、大学で勧誘された(怪しい)勉強会に参加し、そこで『ドイツ・イデオロギー』の有名な一節に出会ったことで、転機が訪れる。「私がまさに好きなように、朝には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして 食後には批判をするということができるようになる。」社会主義というと漠然と暗いイメージを持っていたが、ここで描かれている牧歌的だが具体的な将来社会像は、今自分たちが暮らしている社会のあり方が絶対的なものではないということを初めて私に実感させた。もちろん、現代資本主義へのオルタナティブを思考するのは依然として不可能なほどに困難なままである。だが、マルクスは少なくとも資本主義が唯一永遠のシステムではないということを、この社会で苦しみもがく私たちに教えてくれるのだ。

フリーランス編集者&ライター 斎藤哲也(さいとう・てつや)
 平成が始まった1989年は東西冷戦が終結し、マルクス離れを決定づけるような年だった。
 その後のありさまはご覧のとおりだ。派遣社員は使い捨てられ、ブラック企業の大社長がカリスマ経営者としてもてはやされる。生活保護にはバッシング、貧困は自己責任。国民国家とは名ばかりで、どこの国でも分断は深まるばかり。それでも資本は止まらない。
 これをマルクスを読まなくなったツケとするのは言いすぎだろうか。
 マルクス生誕200周年は、奇しくも平成最後の1年と被る。そろそろマルクスを呼び戻す頃合いだろう。

日本女子大学人間社会学助教 佐々木雄大(ささき・ゆうた)
「人文学徒マルクス

 『資本論』第一巻が放つ魅力は価値形態論や剰余価値論、原蓄論といった重要な理論もさることながら、味気ない二巻・三巻に比して、軽口を交えながら縦横無尽に繰り出される古典への参照にあるだろう。
 苛烈な児童労働を告発するのはシェイクスピアヴェニスの商人』であり、交換価値の実現の際に唱えられるのはダンテ『神曲』の一節である。「等価形態」においてアリストテレスが参照されていることは有名だが、マニュファクチュア論の源流に置かれているのは、現存する最古の「経済学」(オイコノミコス)の著者クセノフォンである。デカルトの『方法序説』は自然支配と思考方式の変化の証言とされ、資本主義下の富を形容するungeheuer(途方もない・怪物的な)とは、カントが『判断力批判』で崇高を特徴付けるために用いた言葉であった。
 人文学の営みが古典を継承して現在において命を吹き込みことであるとすれば、『資本論』第一巻とはまさにひとつの人文学の実践であったといえる。グローバル資本によって人文学が圧し潰されようとしている今こそ、『資本論』は経済学批判の書としては勿論のこと、人文学のありうべき形としても読まれるべきであろう。

立教大学経済学部准教授 佐々木隆治(ささき・りゅうじ)
 現代の私たちがマルクスを読むのは、かつてのようにマルクスが政治的「権威」や学問的「権威」であるからではない。あるいは、マルクスの著作が社会主義の到来を証明する「聖典」であり、それを信奉することによって社会を変えることができると考えるからでもない。私たちがマルクスを依然として読まなければならないのは、マルクスの資本主義批判こそがもっともラディカルであるからだ。すなわち、この社会のなかで自由を奪われ、差別され、苦しんでいる労働者や社会的マイノリティが手に取ることができる強力な理論的武器であるからだ。今日、資本主義システムは、マルクスが『共産党宣言』や『資本論』で予見したように、ほかならぬ自らの発展と拡大によって危機に陥り、「資本主義の終焉」さえも囁かれ始めている。このような危機の時代において、マルクスのラディカルな資本主義批判は間違いなく最も頼りになる、最強の理論的武器となるであろう。

隆文堂 鈴木慎二(すずき・しんじ)
 二〇〇年前の五月五日に、マルクスは誕生した。一〇一年前のロシアで、マルクス思想を規範として一つの国家を誕生させた。
 およそ五十年前の一九六〇年代にも、当時の怒れる若者たちの必読書の一つとされた。
 ただ、今を生きるわたしたちから、この二つの出来事を振り返ると、マルクス思想の二面性も見えてくる。
 長所は思想を拠り所にして活動すれば、革命を起こして新たな国家を創ってしまうほどの力のある思想。短所はケインズが指摘しているが、ファシズムとの相換性である。スターリン毛沢東全体主義への転換はそれが如実に出てしまった形である。
 長短を踏まえた上で、今読んでいただきたいのは『ユダヤ人問題に寄せて』(光文社文庫収)。読みやすい訳で、改題が充実しており、一五〇年も経過しているのに、宗教、民族、国家の関係を考えるための古典であることに気づかされるはずである。
 今の国内情勢も、海外情勢もこの本を読んだ後の目で見たら、確実に視点が変わる。

岩波書店編集者 中山永基(なかやま・ひでき)
 マルクスを題材にした本を作ったことは(まだ)ない。でも、いつもそばにマルクスはいた。なぜって、私たちが生きる社会は矛盾に満ちていて(出版業界も!)、その原因や構造についてモヤモヤと考え始めれば、どうしたって「資本主義」という大きく厄介な壁にぶちあたるからだ。そして、壁にぶつかって戸惑い彷徨ったときに頼りになるのは、結局のところマルクスだ——そんな気がするのだ。もちろん素人の思い込みの域を出ないが、マルクスほど変革にむけたポテンシャルを感じさせてくれるものはないんじゃないか。
なかには毛嫌いする人だっているけど、それも存在感の大きさゆえだろう。しかも、時の流れが玉石混淆のマルクス研究の蓄積から読むべきものを精選し、刺激的な研究成果を生み出しつつある。今、一読者としても、一編集者としても、マルクスにチャレンジしない理由はないと思っている。

中央大学法学部准教授 西 亮太(にし・りょうた)
 いま日本で最も嫌われている思想は左派思想とフェミニズムだと思う。ツイッターをやっていると、悪口としての「サヨク」や「フェミ」といった語を見ない日は無いほどだ。と同時に、ブラック企業問題や働き方改革論争、#MeToo 運動やセクハラ問題を目にしない日もない。最も嫌われている思想が対象とする事象が、最も耳目を引く話題になっているわけだから、これらは一つの事態の表裏だと考えていいと思う。いま、マルクスを読み、フェミニズムを考えることはわたしたちの社会を考えることだ。さらに言えば、働き方改革が(自称)「女性の輝く社会」とセットになっていることからも分かる通り、この二つの思想は組み合わせて考えられなければならない。決して親和性の高い組み合わせではないけれど、だからこそ二つを対峙させて読み、考えたい。簡単ではないけれど、みんなでやれば無理ではない。みんなで考える、これもまた大事な作業だ。