マルクス生誕200周年コメント集「いま、マルクスを読む意味」(3) #Marx200

掲載は氏名の50音順です。

編集者 林 陽一(はやし・よういち)
「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」。
あまりにも有名なこの句から始まる『共産党宣言』を著したとき、マルクスは29歳、エングルスは27歳の若者であった。
歴史や社会の仕組みを、丸ごと解き明かそうとするその情熱と、思想的スケールの大きさには、ただただ圧倒されるばかりである。
マルクス主義なんてうさん臭い」「今さら役に立たない」などと斬って捨てるのは簡単だ。しかし、そもそも「役に立つ・立たない」という基準でマルクスを測ることが間違っている。彼の言葉は紛れもなく「世界を変えた言葉」であり、人類にとっての世界遺産なのである。モン・サン・ミシェル万里の長城を観光するのとまったく同じように、私たちはマルクスを「体験」すべきだと思う。
 長大な主著『資本論』に臆してしまう人には、比較的読みやすい『共産党宣言』や『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』を推す。

法政大学経済学部 原 伸子(はら・のぶこ)
マルクスからフェミニズムへ:「導きの糸」としての経済学批判」
 私の研究者としての出発点は、資本論形史であり、とくに1861年から63年に執筆された「23冊のノート」でした。当時のソ連の雑誌『経済の諸問題』や『哲学の諸問題』は、新MEGAに含まれる『資本論』草稿、とくに第1部「資本の生産過程」の相対的剰余価値論が現行『資本論』より約100ページも分量が多いことを明らかにしていました。私は、ドイツ語版より先に出版されるロシア語版『マル・エン著作集』第47巻を読むために、さらにロシア語の勉強を続け、修士課程1年の夏休みに第47巻を読了しました。1861−63年草稿には、『剰余価値学説史』として知られる当時の経済学説の徹底的な批判と、『資本論』に結実する経済学草稿がともに含まれています。マルクスの「経済学批判」の方法は、私にとっては、現代と対峙するための方法です。現在、私がテーマとしている「フェミニスト経済学」の研究もまた、ケアの理論の構築にさいしての、現在の主流派経済学批判の「導きの糸」になっています。

ジュンク堂書店難波店店長 福嶋 聡(ふくしま・あきら)
 書店の店頭で、「AI(人工知能)」の文字が踊る。本の帯には「AIは、早晩全人類の能力を上回る」との託宣が見える。そして「人間の仕事は、すべてAIに奪われる」と。
 ぼくが、かつて第一巻の半分くらいで挫折したマルクスの『資本論』を、再び最初から読み始めたのは、その書店風景に震撼した時だった。朧げな記憶と、マルクス経済学についての断片的な知識が、ぼくに次のような疑問を抱かせたのだ。
 “剰余価値を生み出す労働者を機械に代替させて、資本主義が、現在の経済構造が維持できるのか?”
 マルクスが資本主義の秘密を徹底的に洗い出す仕事にその一生を費やしたのは、機械が労働者になり替わり、富が一部の資本家にどんどん集中していく、産業革命後の時代においてであった。今日、同型のプロセスが、凄まじいスピードで進行しているのではないか?ぼくたちに身近な「出版不況」も、マルクスが同時代に発見した「恐慌」と同質だ。
 マルクスは、古くて、新しい。

NPO法人ほっとプラス代表理事 藤田孝典(ふじた・たかのり)
 2018年の現代日本でもワーキングプアを中心とした貧困、格差が社会的な課題となっています。それに伴い、貧困を表す言葉が言論でも増えています。ホームレス、ネットカフェ難民、子どもの貧困、女性の貧困、下流老人…。さらに貧困や格差を表す数字も深刻です。相対的貧困率は15,6%になり(厚生労働省2015)、ワーキングプアの割合も13,3%と働いている人々の8人に1人は貧困です(OECD2016)。だからこそ、生活相談や労働相談も後を絶ちません。要するに「働いても貧困や生活苦から抜け出せない」「8時間働いても普通の暮らしが送り続けられない」という事態が社会に広がっているのです。
 マルクスはこれらの人々や労働者が陥る事態を構造的に世界で初めて分析し、資本主義の宿命に立ち向かい、変革していくことを行動でも示してくれた人でした。私たちは残念ながら、今すぐにこの資本主義体制から逃れることはできません。資本主義とはいかなる欠陥や暴力を抱えているのか、生きていくうえでマルクスに触れることは必須だと思います。少なくともわたし自身はマルクスから多くの知見や勇気を得ています。一緒にマルクスと社会を探求してください。

ヨーク大学准教授 Marcello Musto(マルチェロ・ムスト)
The MEGA² make it possible to say that, of the biggest authors of political and economic thought, Marx is the one whose profile has changed the most in recent years. Some recently published volumes of this edition highlighted that Marx was widely interested in several other topics that people often ignore when they talk about him. Among them there are the potential of technology, the critique of nationalism, the search for collective forms of ownership not related to state control, and the need for individual freedom in contemporary society: all fundamental issues of our times.
Research advances suggest that the renewal in the interpretation of Marx’s thought is a phenomenon destined to continue. He is not at all an author about whom everything has already been said or written, despite frequent claims to the contrary. Many sides of Marx remain to be explored.
Moreover, returning to Marx is not only still indispensable to understand the dynamics of capitalism. His work is also a very useful tool that provides a rigorous examination addressing why previous socio-economical experiments to replace capitalism with another mode of production failed. Many of those who will be reading his books today, once again or for the first time, will observe that many of Marx’s analyses are more topical today than they have ever been.
 MEGAのおかげで、偉大なる政治思想および経済思想家のなかでも、マルクスは近年その人物像がもっとも変わった一人だといえるだろう。なかでも最近刊行された数巻は、マルクスについて語る際、しばしば無視されてきたような数々のテーマについて、マルクスが広く関心を寄せていたことを明らかにしている。それらのテーマのなかには、テクノロジーのポテンシャルやナショナリズムへの批判、国家統制とは結びつかない共同的な形態の所有の探究、そして現代社会における個人の自由の必要など、私たちの時代のあらゆる重要問題がある。
 研究の進展が示唆しているのは、マルクスの思想解釈の刷新は、これからも続いていく現象であるということだ。彼は、頻繁に反論がなされてきたにもかかわらず、これまで論じられてきたことに尽きるような著作家ではないのである。
 さらに、マルクスへの回帰は、資本主義のダイナミズムを理解するのにいまだ不可欠であるに留まらない。彼の仕事はまた、資本主義を別の生産様式に置き換えようとするこれまでの社会経済的な試みが失敗したのはなぜかを問う、厳密な試験を与える非常に有用なツールでもある。今日、彼の著作を読もうとする多くの人々は、かつてマルクスを読んだことがある人であれ、初めて読むのであれ、マルクスの分析の多くがかつてなく時節に適しているのに気づくことだろう。

立命館大学専門研究員 百木 漠(ももき・ばく)
 マルクスの偉大さは資本主義の本質をずばりと言い当てたことにある。すなわち、資本とは無限に自己増殖する価値の運動(G−W−G')であり、資本主義とはそのような資本を中心にして形成される経済−社会のあり方である、と。一定の貨幣(G)を労働力という特殊な商品(W)へ投資し、その労働力が生み出す剰余価値によって貨幣の増殖(G')が成し遂げられる。この分析は、今日の資本主義にもそのまま妥当するものであり、全く古びていない。
 こうしたマルクスの洞察は、われわれに資本主義の〈外〉に出て思考することを可能にしてくれる。通常の経済学は、資本主義の内部においていかに最善の状態を実現するか、を考える。マルクスは違う。そもそも資本主義というシステムそれ自体を疑い、問い直そうとする。資本主義とはそもそも何なのか、それは果たして普遍的な経済−社会の仕組みなのかと。その思考がさらに、資本主義とは別の経済−社会への構想を可能にするのだ。

埼玉大学大学院人文社会科学研究科准教授 結城剛志(ゆうき・つよし)
「萎縮する社会の中で」

いま、大学という組織の中にいると、やれ組織改革だ、入試改革だと、騒がしい。大人たちはずいぶんと自分たちがやってきた教育に自信がないようである。では、大学の組織や制度はなぜ変えなければならないのだろうか。直接には、国が言ったから、あるいは世間がそう言っているから、というものである。驚くなかれ、紛れもなくそれが理由である。
 私がマルクスから学んだことは「根本的な正しさとは何か」を問う姿勢である。たしかに、国が言ったことは事実だし、世間さまもそのように仰るのであろう。しかしそこに正しさはあるのだろうか。大学は国から税金をもらっている以上、国に対して何かしらの言い訳をしなければならない。国は国民に対して何かをしているという感じを出さなければならない。言い訳や釈明のための演出に追われ、教育そのものが議論されることはなくなっている。
 朝日新聞に掲載された「火垂るの墓」(高畑勲監督)に関する記事も印象的である。「我慢しろ、現実を見ろ」。生きるためには屈しなければならない。それが現実だ、と。世間はそう言うのだそうだ。たしかに、生きるだけならそれでいい。自分を曲げて生きればいい。しかし、死んで正しさを守る道もある。少なくとも、清太と節子は自由だった。
 マルクスは根本的な正しさを求めた。当時の権威たる国と王、教会と神学、社会主義と経済学を、生活の糧を失うことを恐れずに批判した。そこに残ったのは、ただ正しさだけだった。ばかな生き方と言われるかもしれないし、そんな英雄的な生き方を誰もができるわけではないが、清冽さ・凄烈さに人は惹かれる。残るのはそういったものである。

マサチューセッツ大学アマースト校経済学部准教授 吉原直毅(よしはら・なおき)
 人類文明と地球環境のサステイナビリティ問題に直面している現代において、マルクスを読む意義の1つは、市場制度と資本制経済システムを概念的に区別する視座を学ぶことであろう。市場的交換行為や社会的分業の生成は有史以来の観察事象であるが、市場原理が共同体的原理に優越して社会システムの一元的な支配的原理になるのは、資本制的社会のみである。近代リベラル思想や新古典派経済学は市場と資本制を同一視する事で、市場的交換行為や社会的分業の普遍性を資本制経済システムの普遍性へと錯視する理論体系を構成し、それが現代社会の支配的イデオロギーと化している。しかしマルクスに学ぶことによって、資本制的社会が歴史的な存在に過ぎず、現代の我々が囚われている認識や思考法自体が資本制下の固有な特性に過ぎないと再確認できる。それは現代世界の極端に進行した貧富の格差や、搾取および社会的・経済的抑圧、サステイナビリティ問題などの危機的事象に対しても、我々をして悲観主義に陥ることなく究極的には楽観主義的であり続けさせる知的源泉である。