朱喜哲『人類の会話のための哲学』「はじめに」公開

朱喜哲『人類の会話のための哲学』はご好評頂き、発売後1ヶ月経たずに2刷の増刷となりました。決して少なくない初版部数の博士論文を基にした書籍としては、異例のスピードです。本書が、それだけ読者の関心が高く、評判を呼んでいる書籍である証しです。2刷を記念し、本書の「はじめに」を公開いたします。
引き続きの応援、何卒よろしくお願いいたします。

 

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(本ブログにおける註)

書籍に記載の「傍点」はブログ形式の都合上、省いて掲載しております。

 

はじめに

 私たちの社会には哲学者たちがいる。
 大学で、さまざまな場所で、それぞれ哲学の研究や教育を生業としていたり、また別の生業を持ちながら研究に従事している人たちが、私たちの社会の一員として生活している。もちろん、哲学者もまた人の子であり、ひとりの市民である。友人や家族、お店、地域など、さまざまなコミュニティの一員としての顔をもつ。そうした顔のひとつとして、哲学者は哲学を通じて、なんらかの意味で社会にかかわっている。では、哲学とはなにをしている営みなのだろうか。
 この問いは、あまりに漠然としすぎていて、よい問いとは言いがたい。問われた人によって、答え方もそれぞれ違うだろう。しかし、おそらくそれらの解答の多くは、哲学とはものごとの本質や「真理」について探求する学問分野である、といった方向性のものになるのではないだろうか。
 これは古代ギリシア以来の伝統につらなる哲学の自画像として、もっともなものかもしれない。そして現代において、ものごとの本質というのが物理的な事象のことであれば、物理学をはじめとした自然科学の各専門分野がある。哲学もまた広く科学的な営みのひとつであるとして、こうした自然科学の動向にも目を配りながら研究を進める者も少なくない。
 こうして哲学者のなかには、諸科学の研究動向も踏まえ、不正確な私たちの日常のことばづかいをできるだけ正確なものとして理解することをめざす者たちもいる。たとえば、デカルトやカントのような過去の大哲学者たちが考え出した人の心や認識についての語りかたは、現在では認知科学脳科学のような分野と連携しながら、より正確に理解することができるかもしれない。また、私たちがふだんしゃべる砕けた口語表現は、論理学の語彙に書き直すことで、その正確な意味を明らかにできるかもしれない。
 数式や論理式といった科学の言葉に限らず、人によっては誰それという偉大な思想家の言葉を学ぶことがもっとも真理に迫ることなのだと、―さすがにこの字面をそのまま言うことはなくとも、実質的にはそのようなことを―語る者もいるだろう。
 政治哲学者マイケル・オークショット(1901-1990)は、こうした哲学者の生態について、次のように述べている。


 哲学者の中には、人びとのあらゆる言葉の表明は、じつのところ、ただ一様なものなのだと断じる者たちがいる。表現にある種の多様性を認め、言葉の表明ごとそれぞれ異なったトーンがあることを区別するのはやぶさかではないが、それでも彼らは、ただ唯一の真正な声だけを聴き取ろうとするのである。(Oakeshott 1991, p.488/二三七頁、強調は引用者)

 

 個々の哲学者にとって、こうした「唯一の真正な声」がなんであるかはそれぞれに異なるだろう。先ほど見たように科学の語彙で表現されたり、あるいは特定の思想・宗教の語彙で紡がれたりしているかもしれない。それが何であれ確実なことは、次のような歴史的な事実である。つまり、世の哲学者たちがこうした任務を掲げているとして、しかし、それぞれの奉じる「唯一の真正な声」候補同士のすべてが融和するなどということは、これまでにあったためしがないのである。ほとんどの人が科学的な権威をばくぜんと受け入れている現代社会においても、科学の公式見解と食い違うような信念や信仰をいだく人がいなくなることはないし、仮に科学の見地からは無意味であるとしても、詩や文学、世界の各地域の歴史と文化を学び、政治思想を検討する営みに意義があることは論を俟またない。
 オークショットは、研究や論争、すなわち議論の果てに「唯一の真正な声」を聴くことがめざされるとしても、過去そして現在において響いているのは、「雑多で多様な複数の声たち」であるという当たり前のことを確認する。そして、それらが響く日常的な場こそ「会話」である。


 会話において参加者たちは、研究や論争にかかわるのではない。そこには、発見されるべき「真理」も、証明されるべき命題や、めざされるいかなる結論もない。参加者たちは、互いに知識を伝達したり、説得したり、論駁したりすることにたずさわるのではない。〔…〕もちろん、会話が議論のことばを含んでいてもよいし、論証が話者に禁じられているわけではない。しかし〔…〕会話それ自体は議論から構成されるものではない。たとえば会話の参加者がある結論を逃れようとして、一見まったく無関係に思える発言をするようなこともあるだろうが、そのとき当該人物がしているのは、そろそろ退屈だと感じてきた議論を打ち切って、もっと自分にとって好みの話題へと話を転じることなのである。(Ibid., p.489/二三八─二三九頁、強調は引用者)

 

 ここでは議論が会話と区別されている。より正確にいえば、個別の議論をふくんだ人類のコミュニケーションにかかわる営み全般が「会話」である。個別の議論を打ち切っても、会話は続いていく。そうして、時間と場所と参加者を変えながら営々とつづく〈人類の会話〉というべき営みを、少なくとも過去から現在にかけて、私たちは続けている。
 してみると、オークショットが想像する哲学者たちは、さしずめこうした雑多で多様な声の飛び交う「会話」を、いつの日か「唯一の真正な声」のみが響くものにしたい、と熱望していることになるだろう。その日が来た暁には、飛び交う言葉の雑多さは変わらずとも、つねにすでに「その発言、本当はこういうことだね」と掣せい肘ちゅうされ、ことばづかいを正されうることになる。それは、あるいは〈人類の会話〉をいつの日か完結させたいという熱望であり、同時に「雑多で多様な複数の声たち」の息の根を止めたい、という熱望ではないだろうか。
 哲学者の多く、あるいは一部がそのような熱望をいだいているのかどうか、事実的な評価をすることはできない。ただ、少なくとも哲学、そしてより広くは科学というものが、何らかの意味で「真理」をめざすものだとすれば、それはこうした熱望と実質的に近しい動機を有することになりうる、とは言えるだろう。それは前向きに言えば、科学に託された希望であるが、しかし私たちはそれを望むべきなのだろうか。
 こうした理路を経た、この問いに対して、断じて「否」を唱えるひとりの哲学者がいる。その哲学者は、オークショットの診断に同意し、哲学を筆頭とした「唯一の真正な声」を求める営みのすべてに反逆する。そのすべてを敵に回してでも、〈人類の会話〉を終わらせようとするあらゆる企てに抗い、「雑多で多様な複数の声たち」を守ることこそが自身にとって哲学の任務なのだと。その哲学者こそ、リチャード・ローティ(Richard Rorty, 1931-2007)である。

***

 本書では、二〇世紀後半のアメリカ合衆国を代表する哲学者であるローティを中心に、前世紀から今世紀にかけての哲学のひとつの動向をとりあつかう。それは「プラグマティズムPragmatism」と呼ばれる潮流である。
 ローティは狭義のアカデミアを越えて実に幅広い読者を獲得し、また時局に棹さした政治的発言でもよく知られた哲学者であった。今日のように専門化が進んだアカデミアにおいては、彼のような立ち位置にある学者はそう現れることがない。その意味で、彼はアメリカにおいて、あるいは最後の知識人型の哲学者だったかもしれない。ローティの訃報を伝える追悼記事が「アメリカの哲学者(¬e American Philosopher)」という称号を贈ったことは、それを物語っているだろう[1]。
 日本においてもローティの読者は多く、一次文献の翻訳のみならず二次文献としても各種の入門書での言及を含めると、少なくない書籍が刊行されている[2]。それでは、本書は先行する書籍とどのように差別化されうるのか。まずその点からはじめよう。本書は従来のローティ研究に何を加えているのだろう。以下のふたつの側面から述べたい。
 ひとつ目は、学術的な側面である。没後十年以上が過ぎ、世界的なローティ研究は哲学史の対象として、生前未公刊であった遺稿研究なども進展している。また、ローティの議論を批判的に継承する現役世代のプラグマティストたちの研究動向も多岐にわたっている。このうち前者については、日本語でもその一端が伝えられはじめているが、いまだ十分とは言い難い[3]。また後者については、ローティの批判的後継者の筆頭であり、現在においてプラグマティズムを継承しながら独自の言語哲学プログラムを展開するロバート・ブランダム(1950-)がその主要人物となる。ブランダムその人の紹介は日本でもようやく進みはじめている[4]が、ローティからブランダムへの系譜を詳細に論じたものは日本語ではほぼ見られない[5]。
 本書はこうしたローティの哲学史上の位置づけについて、彼が強く影響を受けた先行世代の哲学者であるウィルフリド・セラーズ(1912-1989)、そして後続世代のブランダムへと連なる議論の継承関係とその関係性を描き出すことを主眼に置いている。セラーズについては第二部、ブランダムについては第三部でおもにあつかうが、過去から未来へのこうした流れを通じて、ローティ固有の主張とその特異な立場、そして何よりその思想的一貫性を明らかにしようとする点で、本書は類書と一線を画しているだろう。
 さらにローティの学術的評価における現在の言説環境の一大変化を指摘しなければならない。この十年強で英語圏を中心に「プラグマティズム」をめぐる新しい議論状況が進展している。この動向は、本書では第一部の主要人物となるシェリル・ミサック(1961-)が主導するところが大きい。そして、彼女が提唱する「ニュープラグマティズム」において、その最大の敵対者と位置づけられるのが他ならぬローティとその「ネオプラグマティズム」なのである。そのため直近のプラグマティズムを主題とした哲学史の書籍においては、ミサックらのローティ批判をもって結ばれることが標準的なストーリーにな
りつつある[6]。この構図においてローティは、いわば「乗り越えられた」「終わった」哲学者ということになる。
 本書が試みるのは、こうした、いわばプラグマティズム陣営内での主導権争いともいうべき構図において、ミサックの批判のポイントを明確化し、彼女のとる立場が、ローティの立場と実質的にどう異なるのか、またそれはローティ批判として有効なのかを検討する。その結論を先取りすれば、ミサックの立場は重要な点においてローティとは異なるが、しかしそれはローティ批判として有効とはいえない。むしろ両者が共有しうる基盤にこそプラグマティズムの本流を見出すべきだろう。
 本書の意義として、もうひとつ触れなくてはならないのは、非学術的な―と言えば語弊があるかもしれないが、狭義の学術的内容にとどまらない―側面である。先述したように、もとより哲学アカデミアの枠を超えた知識人としての言説で知られていたローティは、生前からつねに毀誉褒貶が激しかった。しかし、没後十年が経とうとしていた二〇一六年、生前にもなかったほどローティの名前がセンセーショナルな形で話題になる事態が生じたのである。それは、同年の大統領選挙でアメリカを席巻し、今も続く「トランプ現象を予言した[7]」という文脈である。
 ローティが政治的な言説を打ち出すようになった九〇年代は、まさしくアメリカにおいて現在の分極化につながる政治体制が準備されてきた時期だった。すなわち民主党政権下でグローバル化が推進され、西海岸のテック企業がアメリカ経済を牽引していくと同時に旧来の主幹産業であった自動車製造業や石油産業が衰退していったのである。またその過程で、左派(民主党)が富の再配分を掲げる労働者を支持基盤とする政党という色合いが薄れ、人種的・性的マイノリティの権利擁護を掲げる多様性の党という色合いが増していく。
 九〇年代末、ローティは『アメリカ 未完のプロジェクト』(原題の直訳は『われわれの国をなしとげる』)を上梓する。そこではマイノリティによるアイデンティティの政治(アイデンティティ・ポリティクス)を第一に掲げる「文化左翼」の在り方が批判され、かつての再配分を第一義とする「改良主義的左翼」への回帰が説かれていた。当然、このような言説は一種の保守反動と解され、左派陣営から大きな批判を浴びる[8]。ローティ自身でさえ数年後には「素人じみたエッセイを世に出してしまった」(Rorty 2000d, p.207)と反省の辞を述べているほどだ。しかし、この「素人じみたエッセイ」は二十年の時を経て再評価されることになる。とりわけ次の一節である。


 〔…〕労働組合員および組合が組織化されていない非熟練労働者は、自分たちの政府が低賃金化を防ごうとも雇用の国外流出を止めようともしていないことに遅かれ早かれ気づくだろう。時同じくして、彼らは郊外に住むホワイトカラー層―この人たちもみずからの層が削減されることを心底恐れている―が、他の層に社会保障を提供するために課税されるなど御免だと思っていることにも気づくだろう。
その時点において何かが決壊する。郊外に住めない有権者たちは、一連の制度が破綻したと判断し、投票すべき強い男を探しはじめることを決断するだろう。その男は、自分が当選した暁には、せこい官僚、ずるい弁護士、高給取りの証券マン、そしてポストモダンかぶれの大学教授といった連中にもはや二度と思い通りにさせない、と労働者たちに請け負うのだ。(Rorty 1998, pp.89-90/九六頁、強調は引用者)

 

 二〇一六年以降の世界を生きる私たちは、この「強い男」について、いまやその顔を鮮明に思い浮かべることができてしまう。ローティの予言は続く。


 起こりそうなことは次の通りだ。黒人や非白人系アメリカ人たち、そして同性愛者たちが過去四十年かけて獲得してきた進歩的なものは、あえなく一掃される。女性に対する冗談めかした侮辱がふたたび流行する。黒人やユダヤ人への蔑称がふたたび職場で飛び交う。アカデミアの〈左翼〉が学生たちに決して許容されないことだと説いてきたあらゆるサディズムが、ふたたび溢れかえるだろう。高等教育を受けなかったアメリカ人たちが、大卒の連中から適切なふるまいについて指図されることに対して感じてきたあらゆる憤りが、ついにそのはけ口を見出すのだ。

 

 かくして、ローティが二十年も早く憂いていたのは次のことである。九〇年代から急激に進んだグローバル経済下において、「ふたたび疎外された労働者たちの高まりゆく憤激を、なぜ〈左翼〉は導くことができなかったのだろうか」と。この問いは二〇二○年代の現在も、あるいは今こそ鋭く突きつけられていると思われる。こうした課題意識から、本書ではローティ自身の「素人じみた」ものだったかもしれない処方箋の真価を、読者とともにあらためて検討することにしたい。それを通じて、ローティが現在も読まれるべき価値を有していること、また今日の社会を考えるときにその発想が活かせるということを確認することになる[9]。

***

 さて、本書は大きく三部から構成される。いずれの部でも各々にローティと対置されうる哲学者をいわば客演に据え、その議論から照射することを通じてローティ自身の立場と位置づけを立体的に描き出すことをめざした。三つの部は、ある程度の独立性があるため、読者は関心に応じて読み進めてもらってかまわない。ただ、もちろんこの順に論を進める意図はあるため、以下ではそのストーリーラインについて、各部の客演を紹介するとともに、あらましを述べておく。
 まずは序章において、かつては標準的であった哲学史の流れとそこでのローティの位置づけを確認する。こうした流れが、第一部で紹介する新しい哲学史の理解が覆そうとする対象であることに留意しながら、読み進めていただきたい。
 第一部における客演は、シェリル・ミサックである。第一部はふたつの章からなるが、第一章では「ニュープラグマティズム」からの批判の骨子を抑えつつ、争点を確認する。続く第二章ではミサックとローティの直接的な批判と応答の検討を通じて、両者の不一致点が調停可能であることを論じる。
 第一部での議論は、「プラグマティズム」という思想潮流における今日の議論状況を検討することを通じて、ローティのプラグマティズムの論点を明らかにするものである。そして同時に、それを通じて発見される〈人類の会話〉に奉仕するための哲学という自己規定が、はたしてどのような哲学理論上の帰結を招くことになるのかを検討するための導入でもある。第一部を通じて、ローティ哲学の現在的評価について、読者と目線を合わせた上で、以降ではその系譜に目を向けていく。
 第二部は、二〇世紀中葉以降の英語圏を中心としていまや世界的な標準作法となっている哲学潮流である、いわゆる「分析哲学[10]」(あるいは言語哲学)の歴史において、ローティのプラグマティズムがどのように位置づけられるのか、過去から遡ってその系譜を確認する。そこでもっとも重要な役割をはたすのは、ウィルフリド・セラーズである。
 セラーズは分析哲学の歴史において、必ずしも本流とは言いがたいが、しかしまちがいなく大きな足跡を残し、いまなお参照され、再解釈がなされ続けているという特異な立ち位置にある哲学者である。第二部では、ローティ哲学のもっとも重要で中心的な見解だと本書が考える「規範性」への着目について、第四章においてセラーズ、そして第三章でセラーズがこの着想を得ることになった北米の分析哲学の始祖のひとりルドルフ・カルナップ(1891-1970)へと遡り、そのポイントを確認していく。それによって、第五章においてローティのプラグマティズム哲学史的に継承しているアイデアを明確にしたい。
 第三部は、いわばローティ以降、その影響を受けたプラグマティズムの検討である。そこで中心的な役割をはたすのは、ローティの影響を受けて独自の立場を打ちだすロバート・ブランダムである。ブランダムは、体系的な理論構築を拒絶するローティとは異なり、積極的に理論を打ち出している。「推論主義」と呼ばれる彼の言語哲学上の立場は、体系的理論を指向しているという点では、一見してローティと相容れない。しかし、本書ではじつのところブランダムは、ローティの重要なモチベーションを継承しており、かつその中心的テーゼを遂行するための具体的な道具立てを提供しているという描像を提示する。
 まず第六章においては、ブランダムに至るネオプラグマティズムの流れを整理し、ローティとブランダムとの相違点もまた確認をする。それを踏まえて、ブランダムの推論主義が、ローティが対峙してきた、あるいは対峙しようとしながらも手立てを持たなかった社会的問題に対して、分析ツールとしてどのように有効なのかを論じる。
 この整理を念頭に、最後の二章においてはローティが「文化政治」と呼ぶところの哲学の実践として、ブランダムの推論主義を応用的課題に適用し、その射程を探っていく。第七章では、ヘイトスピーチのような実際的な課題について、どのように推論主義がその危険性について考えるための理論的基盤を提供することができるかを検討する。第八章では、ローティが人権基礎づけ主義批判として論じてきた「感情教育」の問題について、ブランダムの哲学理論がその内実を考える視座を提供することを示す。
 以上を通じて、読者はローティという不世出の哲学者を、〈人類の会話〉の守護者であろうとし続けた人物として再発見することができるだろう。

 

[1] “Richard Rorty. Philosopher, Died at 75,” New York Times, 2007. (https://www.nytimes.com/2007/06/11/obituaries/11rorty.html
[2] ローティを主題とした文献のうち、とりわけ入門に適したものとして、冨田(2016)、大賀(2009)が挙げられる。
なお八〇年代前半から長きにわたってローティと親密な友誼を結び、日本独自のローティ論集であるローティ(1988)、ローティ(2018)も手がけている冨田恭彦(1952-)の数々の業績なしに日本でのローティ受容を論じることはできない。
[3] 日本語で紹介されたものとしては、ローティ(2018)などがある。
[4] 私も訳者に名を連ねているブランダム『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(加藤・田中・朱・三木訳、勁草書房、二〇二〇年)は、ブランダム自身によるプラグマティズム論の代表作である。また、ブランダム
哲学への絶好の入門書として、白川(2021)も刊行されている。
[5] ただし岡本(2012)は、入門的なストーリーを提供してくれている。
[6] たとえば伊藤(2016)は、日本語でプラグマティズム全体の歴史を学ぶ上で現在のところ最適な入門書であるが、同書もこのストーリーを採用する。
[7] “Richard Rorty’ s 1998 Book Suggested Election 2016 Was Coming,” New York Times, 2016. (https://www.nytimes.com/2016/11/21/books/richard-rortys-1998-book-suggested-election-2016-was-coming.html
[8] 当時の議論の記録は、Pettegrew ed. (2000)などに収録されている。日本語で読めるものとしては、北田(2018)に論点がまとまっている。
[9] ただし、本書ではあくまで理論的な対処の可能性を中心に検討する。本書で描き出すようにローティ哲学の中核をなしている「ボキャブラリー」および〈人類の会話〉という観点から、トランプ現象を含む現代社会の課題への具体的な検討は、朱(2023)を参照されたい。
[10] 今日の議論では「分析哲学」というカテゴライズの妥当性そのものが議論の対象となっているのだが、本書の関心の中心はそこにはないため、この呼称を本文中で述べる歴史的な定義において用いる。(cf. Beaney ed 2013, Chap.1)