#nyx5号 第一特集「聖なるもの」主旨文公開

 宗教の本質、世俗を超越した次元、人間の生における至上の価値、いわく
言いがたい深遠にして崇高なもの―、ひとはおよそこれらのものを〈聖な
るもの〉と呼ぶ。
 〈聖なるもの〉(the sacred, le sacré, das Heilige)とは「聖なる」を意味する形容詞sacred, sacré, heiligを実詞化したものであり、その対義語は「俗なるもの」(the profane, le profane, das Profane)である。それは一般的に宗教の領域に属するものや日常の秩序から隔絶したものを指すために用いられる。具体的に言えば、神、聖域、教会や寺社仏閣、聖人や人格一般、宗教的儀礼、芸術作品といったもののうちに〈聖なるもの〉が認められる。
 とはいえ、〈聖なるもの〉という概念はこれまであまりにも無反省に用いられてきた。それは一方で、一九世紀から二〇世紀にかけて歴史的に形成されてきた概念であるにもかかわらず、その経緯は顧みられることなく、あたかもア・プリオリであるかのように自明視されている。〈聖なるもの〉は宗教的なものを規定する本質(オットー、デュルケーム)だとか、世界を秩序付ける実体(エリアーデ)だといったように扱われてきたのである。
 それはまた他方で、芸術やエンターテイメントを批評する際に、あるいは、特異な体験を表現する際に、何らか神秘的なものや超越的なもの、言語化不可能なものを指さ すために用いられることもある。そのとき、〈聖なるもの〉という語は、その内実を十分に分別されることなく、何でも放り込める「ゴミ箱概念」としてしばしば便利に使われてしまう。
 しかし、古くは宗教現象を研究するために「聖」概念は必要ないとしたペッタッツォーニや、「宗教」概念は西洋近代的なものにすぎないとする近年の宗教概念批判(J・Z・スミスやT・アサドら)を通じて、そうした素朴な〈聖なるもの〉理解がもはや失効していることは、宗教学においては周知の事実である。
 では、こうした議論を踏まえた上で、それでもなお〈聖なるもの〉という
概念は人間や社会、宗教にとって重要な意義をもちうるのだろうか。それと
も、単なる虚構にすぎず、捨て去られるべきなのか。もし仮に世俗化の時代
とされる現代にあっても何らかの可能性が残されているとするなら、それは
どのような途でありうるのだろうか。
 本特集では、〈聖なるもの〉を実体として前提とすることなく、あくまでも歴史的に形成されてきた概念として批判的に検討する。まず、〈聖なるもの〉をめぐる一般的な学説史を確認した上で、次に、哲学、神学、宗教学、解釈学、社会学文化人類学表象文化論、認知宗教論、日本思想史といったそれぞれの見地から、この概念を反省的に捉え返し、さらにその先へと議論を展開していく。このように根源的に問い直すことを俟って初めて、現代社会における〈聖なるもの〉の限界と可能性も明らかになるだろう。

江川純一・佐々木雄大

『nyx』第5号(2018年9月20日発売)

江川純一 一九七四年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科助教。専門は宗教学宗教史学。著書に『イタリア宗教史学の誕生―ペッタッツォーニの宗教思想とその歴史的背景』、共編著に『「呪術」の呪縛【上・下巻】』等。

佐々木雄大 一九七八年生まれ。日本女子大学助教。専門は倫理学。論文に「バタイユにおける聖と俗の対立の問題」 『倫理学年報』二〇一八年。「タブーは破られるためにある―エロティシズムにおける禁止と侵犯」『nyx』二号、二〇一五年、「〈エコノミー〉の概念史概説―自己と世界の配置のために」 『nyx』創刊号、二〇一五年、等。共著に『近代哲学の名著』中公新書、二〇一一年、『現代哲学の名著』中公新書、二〇〇九年、等。