#nyx5号 第二特集「革命」主旨文公開

 「政治」という言葉で、何を思い浮かべるだろうか? 民主主義、選挙、国会、デモ……かつては、そのリストのなかに間違いなく「革命」も含まれたにちがいない。だが近年、政治と革命が正面から論じられることは稀になっている。じっさい、昨年はロシア革命一〇〇周年であり、今年はマルクス生誕二〇〇年、一九六八年の五月革命から半世紀であるにもかかわらず、革命がそれほど注目されているようにはみえない。「現存社会主義」であったソ連が崩壊し、九〇年代以降グローバル資本主義の勝利が叫ばれるなかで左派は影響力を失い、革命をめぐる言説や実践は背景に退いていった。一般的なイメージでは、革命はヘルメットとゲバ棒を身に着けて、バリケードを築けば、社会が変わると考える馬鹿げた妄想と捉えられているのかもしれない。トランプの当選、ブレグジット、安倍政権の暴走といった現代政治の文脈で重要なのは、そのような妄想ではなく、民主主義の制度設計であり、立憲主義だというわけだ。もちろん、そうした指摘の正しさは疑いようがない。だが同時に、ここで念頭に置かれている「革命」の表象はステレオタイプに満ちていて、貧しい。
 歴史においては、革命はより切迫した問題であり、思想もまた革命を繰り返し扱ってきた。ヘーゲルフランス革命レーニンロシア革命アーレントアメリカ革命、フーコーイラン革命など、いくつもの例をあげることができるだろう。革命は自由と平等を論じる際に不可欠な役割を果たしてきたのみならず、主権、暴力、民主主義をめぐる様々な問い誘引してきたのである。
 革命は暴力的で、破壊的である。だからこそ、人々はそれを民主主義との関連で論じることを望まないし、革命などというものが存在することも認めようとしない。それは左派でさえもそうである。マルクス主義の影響を受けたエルネスト・ラクラウやジャック・ランシエールといった左派は「ラディカル・デモクラシー」を唱え、ユルゲン・ハーバマスに代表される熟議型民主主義を批判している。だが他方で、政治的なものを「出来事」としてとらえていることによって、革命はもはや革命として論じられることなく、デモクラシー内部での出来事へ解消されてしまう。革命はそのポテンツを剝奪され、デモクラシーという名のもとで馴化されているのだ。こうした革命の否認には、独裁やテロルといったやっかいな否定性が革命にとり憑いており、そのことがデモクラシーとの緊張関係を生んでいるという事実に対する暗黙の承認があるのかもしれない。だが、このような否定性から目を背けてはならない。このような否定性は、既存の社会的諸関係にはとらわれない、別の社会のあり方の可能性を示唆してもいるのだから。
 われわれはソ連崩壊後、革命なきポスト共産主義の時代に生きてきた。だが人類史的にみれば、革命の時代はいつ回帰してきてもおかしくない。事実、世界的にみれば、オキュパイ・ウォールストリート、15M運動、アラブの春といった新たな運動の台頭をめぐって、「革命」が再び論じられるようになっている。そのような現状も踏まえ、本特集は、革命の思想史を辿ることによって、自由や平等をめぐる問いを歴史的に再構築していくことにしたい。

斎藤幸平

『nyx』第5号(2018年9月20日発売)

斎藤幸平 一九八七年東京生まれ、大阪市立大学経済学部准教授。著書にNatur gegen Kapital: Marx’Ökologie in seiner unvollendeten Kritik des Kapitalismus(Campus Verlag, 2016.) 等。