『nyx』第5号刊行予告

8月末本出来予定、9月上旬から流通開始予定となります。

『nyx』第5号 書誌情報


【第一特集「聖なるもの」 主幹:江川純一×佐々木雄大】佐々木雄大 序文「〈聖なるもの〉のためのプロレゴメナ

江川純一×佐々木雄大 対談「〈聖なるもの〉と私たちの生」

馬場真理子「空虚な「聖なるもの」」
原俊介「オットーの聖なるものと魂の根底(Fundus Animae, Seelengrund)――ドイツ神秘主義と近代認識論(心理学・論理学・美学)の系譜から」
江川純一「ペッタッツォーニの「サクロロジア」」
佐々木雄大「堕天使と悪魔の諍い――カイヨワとバタイユとの〈聖なるもの〉の差異」

ミルチャ・エリアーデ、奥山史亮 訳「原始神話体系」
奥山史亮「原始神話体系」解題

溝口大助「聖なるものと事物――デュルケム学派における聖なるもの」
橋本一径「イメージと聖なるもの」
藤井修平「宗教認知科学CSR)における脱神秘化された「聖なるもの」」

ドミニク・ヨーニャ=プラット、小藤朋保 訳「聖――形容語から実詞」
ダニエル・エルビュ゠レジェ、田中浩喜 訳「社会学者と聖なるもの」
鶴岡賀雄「「聖なる(もの)」という言葉を使うために」

鴻池朋子×江川純一 対談「アート・魔法/呪術」

【第二特集「革命」 主幹:斎藤幸平】
深井智朗「宗教改革は「革命」なのか」
鳴子博子「ルソーの革命とフランス革命――暴力と道徳の関係をめぐって」
石川敬史「収斂としてのアメリカ革命」
斎藤幸平「革命と民主主義――マルクス対ポスト・マルクス主義
塩川伸明「ポスト社会主義の時代にロシア革命ソ連を考える」
酒井隆史「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて――コミュニズムはなぜ「基盤的」なのか?

マルクス・ガブリエル来日関連記事】
千葉雅也×マルクス・ガブリエル 対談 「新実在論」「思弁的実在論」の動向をめぐって
マルクス・ガブリエル、加藤紫苑 訳 「なぜ世界は存在しないのか――意味の場の存在論と無世界観」

【単発記事】
飯田賢穂 レポート「なぜ、哲学なのか? 発言する哲学、越境する哲学」

大学・大学院からの留学/河南瑠莉氏/海外進学のススメ

河南瑠莉さんは、現在ベルリン・フンボルト大学の文化科学研究科修士課程に在籍されています。1990年東京生まれで、早稲田大学、ベルリン自由大学で政治経済学・文化政策を学んだ後、現在に至ります。博士課程からの留学などは研究者でよくみられるキャリアですが、大学卒業後の海外進学、修士も海外で、というプロセスは一般にあまり情報が知られていないではないでしょうか。海外進学へ至った道のりと現在の学業についてお話をお伺いしました。

 早稲田大学を卒業されたあと、なぜフンボルト大学へ行くことになられたのでしょうか。

 日本の大学院への進学を考えていた時もあったのですが、私の希望していた文化研究(Kulturwissenschaft)という少し変わった研究アプローチがそもそもドイツ特有のものであったという研究上の理由と、また学費のかからないドイツであれば比較的少ない費用でも渡航できたからという現実的な理由があります。
 日本の学部時代から、ドイツの学術関連の出版社ズーアカンプ(Suhrkamp)社の学術書を愛読しており、そこで所謂伝統的なディシプリンである「美術史」や「文学研究」、英米圏における「カルチュラル・スタディーズ」とも異なる独自の研究のあり方を知り、これまでにない知的な興奮を覚えることがありました。それ以来フンボルト大学はじめドイツ国内の幾つかの大学にコンタクトを取っているうちに、ドイツへの進学が具現化されていきました。

 語学はどのように勉強されたのでしょうか。

 高校の一時期をベルギーの現地校(オランダ語)で過ごしたことがあったため、ドイツ語に関しては比較的困難を感じることなく勉強できました。しかし周りを見ていても、帰国子女だから有利だとか、外国語における言語運用能力が格段高いとかいうことはありません。むしろ研究レベルで使える外国語運用能力を身につけるには、母国語における読み書き能力、論理的思考の基盤の有無の方が重要になるのではないでしょうか。ドイツの大学では読書量・執筆量が圧倒的に多いので、言語に関しては否が応でも鍛えられてしまう環境があると思います。

 ご専門の文化研究(Kulturwissenschaft)という分野について、もう少し教えてください。

 ドイツ的な「文化研究」とは、文学研究や美学美術史、はたまた民族(俗)学や歴史研究と対象をある程度同じとしているものの、何が違うのかというと、先ほどの言葉を使えば「研究のあり方」に要約されると思います。非常に極端に言ってしまえば、ドイツにおける「文化研究」とは、ある特定の文化そのものにまつわる分析をするのではなく、「文化」や「社会」などという人文学が当たり前のように「対象」としてきたものがいかなる偶発性の中で構築されてきたのか、その所以を歴史的・哲学的にたずねていこう、という認識論的な研究になると思います。ドイツの学者アンドレアス・レックヴィッツ(Andreas Reckwitz)はラディカルにも、「文化研究」の直接の対象は「文化ではない」とさえ言っているくらいです。 (もちろん何をもって「文化科学」と規定するかはドイツ国内でも決着がついていない部分があり、ディシプリンの根源を問う行為そのものが「文化科学」的なアプローチであるとも言えます。そのようなパースペクティブの複数性を反映して「文化科学」をKulturwissenschaftenと複数で表記する場合も多くあります。レックヴィッツの立脚点についてはこちらを参照ください。Die Kontingenzperspektive der „Kultur“ – Reckwitz, in: Friedrich Jaeger/Jörn Rüsen (Hg.): Handbuch der Kulturwissenschaften, Band III: Themen und Tendenzen, Stuttgart/Weimar 2004, S.1-20)
 私の場合、文化研究の中でも専門を「美術館・博物館学」としておりますが、特にドイツ系・メディア論の影響が濃厚な先生方のもとで指導を受けてきたことが専門分野を選ぶ経緯となったと思います。個々の作品の美学的価値ももちろんですが、むしろそれよりも作品に価値を付与してしまうメディウムとしての「ミュージアム(美術館・博物館)」、あるいはこうした媒体が行使する「エクリチュール(批評・論文)」という文化的技術が、西洋において形成されてきた過程を自明の歴史としてではなく特殊・偶発的なものとして捉え直すことに関心がありました。ですので、たんに「美術の歴史」や「博物館の歴史」といったディシプリン内在的な問い立てではなく、それが一つの知のエピステーメとして構成され(得)る状況を探るドイツ的な「文化研究」に強く惹かれたため、今の研究科に在籍するに至りました。

 留学に関して、ご家族など周囲の方はどのような反応でしたでしょうか。

 ちょうど周りの学生が新卒である程度良い条件下で就職していく中、進学すること、しかも2年で修了できるのかわからない外国での学位取得を目指すという私のプランを、周囲はあまり具体性あるものだとは思ってなかったのではないでしょうか。MBAなどビジネスに直結するタイプの学位や、医師免許など国家資格が取得できる学位など、目に見える形でのアウトプットがない研究分野でしたので、尚更「なぜ・いま・あえてドイツ」へいく必要があるのか周りから理解してもらうのは難しかったです。幸か不幸か家族からは進路については無干渉でしたので、反対はされませんでした。

 留学の情報はどのように集められたのでしょうか。また、日本の大学や国、周囲の支援はいかがでしたか。

 海外進学については全て自分で情報を集めました。日本の大学では、学内の制度を活かした「交換留学」についてはサポートが充実しているのですが、国外への「進学」となるとなかなか難しいようです。さらに英語圏以外の大学となると、日本の大学にとっても未知数の部分が多いので、私を含め周りの学生もみな、自分で情報収集していたと思います。最近では、文部省の「トビタテ留学」など、日本国内でも海外進学を奨励する制度が整ってきているようですね。
 また、「留学」といいましても、実は私はドイツの大学側からすると「留学生」ではありません。一般の「学生」だけど、たまたま外国籍だったという扱いですね(人口の4人に1人が外国人だと言われているドイツでは、学生の国籍が外国であるということは特別なことではありません)。これは何を意味するかというと、進学の段階にあっても普通の学生と同様に自分で情報を集め、必要であれば受験(研究計画の提出など)をし、受理されたら研究科の要綱に沿って独自の研究スケジュールを計画する、ということです。一部の大学では「外国人学生受入枠」もあるようですが、無い場合は現地の学生と同じ条件での受け入れになります。なので、かなり早い段階で進学希望先の教授にコンタクトをとり、ビザや滞在許可についても各自で大使館などに条件を問い合わせておくことを勧めます。
 私の研究科は受入条件が厳しく、日本の学位や学士時代の成績は認定されたものの、それがドイツの大学と同等の勉強の質を客観的に証明するものではないとの理由で一度は受験を拒否されたり、ハプニングもありました。そのほか制度的な面で問題は諸所あったのですが、ドイツでも日本でも個人的に面識のある先生方からは推薦状を書いてもらうなど非常に親切に対応・応援していただきました。

 なぜ「留学」制度ではない形をとられたのでしょうか。

 ドイツの大学で「留学」というのは、ドイツ国外の大学に所属している学生や研究者がなんらかの派遣プログラムを通じてドイツに数年滞在する形を指すことが多いと思います。ドイツで「留学生」になるには、日本の大学院に在籍しながら単位の一部をドイツの大学で取得するという形が一般的になるのではないでしょうか。確かに留学というのは制度的にコーディネートされているので、派遣・受入の手続きが比較的にスムーズだと思います。受入先でも、あらかじめ担当教員が決まっていたり、ドイツの大学生活を上手くスタートできるように特別のカリキュラムが組まれていたり、「留学センター」などが住居や生活面でのサポートをしてくれることも多いと思います。
外国籍であろうとドイツ籍であろうと一般の「学生」にはそのような特別なサービスはありませんが、その代わり日本の大学を通さずとも正規の学生として現地の教授陣の指導を直接仰ぐことができます。研究分野にもよると思いますが、私の場合は厳密な意味での文化研究がドイツ特有の研究領域であったため直接進学する形を選びました。また進学すれば、ドイツの学生であるので学費が無料になるだけでなく、ドイツの学生や研究者を対象にした研究予算を申請して研究することが可能になります。私も2年前、学内で一時的に批評のプラットフォームを共同で立ちあげたのですが、これも一部フンボルト大学の研究予算で運営し、国際シンポジウムなどを開くことができました。

 今の生活で良いところ、また反対に大変なところはどういったところでしょうか。

 私は事情あって、進学と同時に働きながら大学院に通うことになりましたので、素早く学位を取得し帰国なり博士なり次のステップに行くということはできませんでした。初めは自分の勉強・研究に充分な時間を取れないことに対しフラストレーションを感じることもありましたが、その分ドイツで働き、研究や仕事を通じて多くの方とお会いすることができ、今まで知らなかった働き方や専門分野などたくさんの可能性を見つけることができました。学部時代にはじめて渡独したのが2011年、それ以来ドイツ社会も劇的に変わりましたし、自分自身のライフステージにも変化がありましたが、紆余曲折したからこそ、結果として大学で時間を過ごす以上にドイツという国の文化、ドイツ人の生活や労働の価値観を間際に感じながら生活することができたと思います。

そちらでの勉強の様子、大学の様子などを教えてください。

 大学院なので授業はあまり多くなく、各自の研究が中心となってきます。授業は演習やセミナーが中心で、20枚程度のゼミ論文を6本ほど提出すれば一応、修士論文を残して「必修単位」は比較的早く取得できてしまいます。が、学生はみな自主的に研究グループを作ったり、インターンシップをしたり、かなり忙しく過ごしているように思います。私の場合も始めの2年で単位取得はしておりますので、あとは学生研究アシスタントとして働いたり、ほかにも幾つかプロジェクト単位で働いたりしながら、基本的には図書館で修論を書いて日々過ごしております。卒業の時期も9月に一斉卒業というようなことはなく、個人のスケジュールで動いていますから、大学内では「同期」「ゼミ生」といったユニットはあまりありません。
 日本で研究をしていると、外国の見識を得るということが研究者の一つのタスクでありチャレンジでもあるとも思うのですが、ドイツの大学では英語・ドイツ語・フランス語などを通じてヨーロッパの多くの国の言説が翻訳を待たずともダイレクトに入ってきます。言語の壁による受容期間のギャップが少なく、論文発表やシンポジウムを通じて同時代的な議論に直接参加できるのは大変刺激的ではありますが、言葉がわからないから近年の議論の動向を知らなかったとか、あとは翻訳版だけ読んでいて原書を読んでいない、などというのが許されない厳しさもあります。私は必ずしも原著絶対主義ではありませんが、3ヶ国語以上できて当たり前の人文系の中でフランス語がそこまでできないこと、美術史を紐解くのに不可欠なラテン語の知識を欠いていることなど、少なくとも知へのアクセスの面では日常的にハンディキャップを感じております。

 差支えない範囲で、河南さんの留学仲間・先輩方といった周囲の方の、同じように良さそうなところ、大変そうであったところなど教えてください。

 先ほど「留学」と「海外進学」において制度的な相違点をお話ししましたが、周りを見ていても、この違いは進学時だけでなく海外生活中ずっと離れない問題だと感じました。日本では、後に日本へ戻る際のキャリアを考えて、時期や目標を明確に限定した前者が勧められることも多く、制度的に保証が少なく現地に放り出されてしまう「移住」型の「海外進学」はまだまだ少数派だと聞いておりました。
 しかしドイツへ来てしまいますと、日本人も含め本当に様々な人が多様な目的でドイツに移住しています。現地の大学で学位をとることは研究者になる・ならないにかかわらず、こちらの社会で居場所を見つけるための有益な基盤となっていることは確かです。来てみてわかったことですが、ドイツの大学院に修士課程から来ている日本の人は意外と多いですね。漠然と進学するには言語的にも制度的にもハードルの高いドイツだからこそ、まわりの先輩方を見ていますと目的意識をもって充実したドイツ生活を送っている方が多いと思います。修士から博士へ行かれる方もいますし、修士を取得して現地で就職したり、事業を立ち上げたりアーティストとして活躍する方もたくさんいます。大学を出たあとで「これが正解」という生き方・働き方がない分、皆自由と責任を持ってやりたいことを追求している人が多く、見ていて励みになります。
 大変そうだなと思ったのは、家族の都合や何らかの事情で日本に帰ることを余儀なくされた時にどうするかということですね。当然日本でも、これまでの経験を活かせる職場・研究環境を探すことになるのですが、ここにきて障壁にぶつかったというお話はよくうかがいます。ドイツ人の同僚・研究者に囲まれてドイツで働き、場合によってはこちらで家族をもちながら生活していると、業種や研究が日本に直接関係あるものでない限り、日本における同業の方とのコンタクトがどうしても薄くなりがちです。また、女性であれば、年齢や子供の有無で左右されがちな日本の雇用� ��態に悩んだというお話も伺いました。外国で暮らしながらも将来帰国することを踏まえて日本との縁を構築し続けること、また、簡単に聞こえるかもしれませんが単純に日本語を忘れずに維持し続けること、これは学生や研究者にかかわらずとも「移住」型を選んだ人全てを悩ませる課題だと思います。

 後輩へのアドバイスなどあれば、お願いいたします。

 少し外国で勉学をしてみたいけれど、近い将来は日本で働くことを前提としているのなら、日本の大学に所属を残して、ダブルディグリー制度など何らかの枠組みの中で留学されるのがいいと思います。奨学金などの面でも、ドイツの研究機関に数年以上滞在してからだと日本側の奨学金への応募資格がなくなってしまうこともあるので(ポスドクなどは例外もあるようです)、自分にとって何が最適か調べておくといいと思います。
 しかし、来てみたら、現地で家族ができたり、知らなかった研究分野に出会ってしまったり、想定外のことが起こるのが常ですし、逆にそれによって日本で考えていたキャリアプランより更に大きな目標を描ける人も多いと思います。周りでもドイツの大学を出た人はある程度楽しくドイツ社会の中で居場所をみつけている人が多いので、目標があるのでしたらあまり不安に思いすぎず、おおらかに構えて進学されたらいいと思います。
 またドイツにはいわゆる大学間の「偏差値」のようなものがないので、大学ランキングのようなものは、ほとんどあてになりません。同じ大学でも研究科ごとにカリキュラムも研究予算も雲泥の差です。ドイツの大学に進学される場合は、何を学びたいのかを明確にし、どこでその分野が学べるのか、指導を仰ぎたい教授はどこに在籍しているかを基準に選ばれると良いと思います。

 ありがとうございました!

インタビュアー 小林えみ

河南瑠莉(かわなみ・るり) 1990年、東京生まれ。早稲田大学、ベルリン自由大学で政治経済学・文化政策を学んだ後、ベルリン・フンボルト大学の文化科学研究科修士課程に在籍。ベルリン森鴎外記念館の研究助手として制作・リサーチ・翻訳を担当し、常設展示の新設に携わる。近代思想史、美術館学・博物館学を専攻。訳書に『資本主義リアリズム』
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ブックツリーにて選書をされています
「後期資本主義時代の文化を知る。欲望がクリエイティビティを吞みこむとき」

シノドス寄稿記事
「無数の断片の中に潜り込みながら――ドクメンタのナラティブ・テクニック」(2017年8月25日)
「空き家から生まれる「ポスト成長都市」――ライプツィヒの持続可能なハウスプロジェクト」(2017年10月27日)

マルクス・ガブリエル氏来日関連記事一覧 #Gabriel2018Japan

2018年来日時のガブリエル氏関連記事です。リンクは各社の都合できれることがありますのでご了承下さいませ。

哲学者が語る民主主義の「限界」 ガブリエル×國分対談」『朝日新聞』、2018年6月20日國分功一郎氏との対談、通訳:斎藤幸平(紙面掲載は6月29日32面)

「入門マルクス・ガブリエル」『読書人』6月29日号1面、インタビュアー:浅沼光樹、通訳:セバスチャン・ブロイ

「知識人には社会問題を語る義務がある」『神戸新聞』7月6日朝刊、インタビュー掲載

哲学的になりすぎないこと~マルクス・ガブリエル氏との対談を終えて」『現代ビジネス』7月6日、國分功一郎氏寄稿

「政治に倫理は大事なものでなくなった」 ドイツの哲学者、ガブリエルさんが語る 広がる「21世紀型ファシズム」」『毎日新聞』夕刊2面、7月6日、インタビュアー・記事:藤原章生毎日新聞

《イベント》資本主義の比較史(10/6開催)

山本浩司さんの著書 "Taming Capitalism before its Triumph"刊行を記念し、その著書関連のシンポジウムが開催されます。

Political Economy Tokyo Seminar
資本主義の比較史――Yamamoto, 2018 Taming Capitalism before its Triumph をめぐって

日程 2018年10月6日(土)
時間 13~19時
会場 東京大学経済学研究科学術交流棟小島ホールコンファレンスルーム

提題者 山本浩司

プログラム
13:10-13:40 提題:山本浩司 「Taming Capitalism と比較史への招待」

13:40-13:50 質疑応答

西洋史からのコメント》
13:50-14:20 坂本優一郎  関西学院大学 イギリス経済史「近世を問う:Koji Yamamoto, Taming capitalism before its Triumphによせて」
14:20-14:50 隠岐さや香  名古屋大学  フランス科学史
14:50-15:20 長谷川貴彦  北海道大学  西洋史方法論「歴史学方法論からのコメント」

15:20-15:50 休憩

《日本史・東洋史からのコメント》
15:50-16:20 岸本美緒   元お茶の水女子大学 中国史「17世紀中国経済と秩序問題―ー表象・時代観と長期的社会変容」
16:20-16:50 谷本雅之   東京大学   日本経済史
16:50-17:20 松沢裕作 慶應義塾大学 日本近代史「手なづける手は見えるのか――日英比較を通じて」

17:20-17:40 休憩

17:40-18:30 ラウンドテーブル  司会・金澤周作 京都大学 近代イギリス史

閉会7時

登壇者プロフィール(登壇順)
坂本優一郎(さかもと・ゆういちろう)関西学院大学文学部教授。研究分野はイギリス近世・近代・現代史。著書に『投資社会の勃興――財政金融革命の波及とイギリス』(名古屋大学出版会、2015年)。

岸本美緒(きしもと・みお)お茶の水女子大学名誉教授・東洋文庫研究員。研究分野は中国明清社会経済史。著書に『清代中国の物価と経済変動』(研文出版、1997年)、『明清交替と江南社会』(東京大学出版会、1999年)など。

松沢裕作(まつざわ・ゆうさく) 慶應義塾大学経済学部准教授。研究分野は日本近代史。著書に『生きづらい明治社会』(岩波ジュニア新書、2018年)、『自由民権運動』(岩波新書、2016年)、『明治地方自治体制の起源』(東京大学出版会、2009年)など。

金澤周作(かなざわ・しゅうさく) 京都大学大学院文学研究科教授。専門分野は近代イギリス史、福祉史、海事史等。著書に『チャリティとイギリス近代』(京都大学学術出版会、2008年)、編著に『海のイギリス史』(昭和堂、2013年)、論文に’’To vote or not to vote’: charity voting and the other side of subscriber democracy in Victorian England’, English Historical Review, vol.131 no.549 (2016)。

主催 東京大学大学院経済学研究科 Political Econmoy Tokyo Seminar

お問い合わせ
 info@horinouchi-shuppan.com
 koji.yamamoto21[at]gmail.com

追加の情報が入り次第、また更新してお知らせいたします。

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"Taming Capitalism before its Triumph"はオックスフォード大学出版局(日本支社)のHPでご購入頂くと、参考価格(税込)12,355円が割引価格(税込)8,649円にてご購入頂けます。シンポジウムの前にお読み頂けると、よりシンポジウムが理解・楽しめると思いますのでぜひご覧ください。

オックスフォード大学出版局(日本支社) "Taming Capitalism before its Triumph"

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山本浩司(やまもと・こうじ)
東京大学大学院経済学研究科准教授。研究分野は西洋経営史、イギリス近世史等。英国ヨーク大学で歴史学博士号を取得後、セントアンドリュース大学、エジンバラ大学に所属し現在に至る。2014年秋までキングス・カレッジ・ロンドン歴史学部にて英国学士院特別研究員、ケンブリッジ大学人文社会科学研究所(CRASSH)研究員を経て現職。

東京大学紹介ページ

リサーチマップ

【出演】「越境者としてのパーソナル・ヒストリー」 TEDx Tokyo TEDxTokyo yz ver. 2.0 〜越境者〜(2011年10月)

【対談記事】「技術革新と資本主義——“Project”の起源とこれからの企業のあり方山本浩司×岡村周実(日本IBM




#DerridaToday2018 リポート/吉松覚氏/若手研究者が国際カンファレンスに参加する意義2

カナダのモントリオールでカンファレンス「6th Derrida Today Conference 2018 – CFP」が2018年5月23~26日に開催されました。翻訳『ラディカル無神論 デリダと生の時間』(法政大学出版局』などでご活躍の研究者、吉松覚さんにカンファレンスの様子とご自身の研究などについてお伺いしました。

 カナダのデリダ・トゥデイでの発表、おつかれさまでした。これからそのご発表についてお伺いしたいのですが、まずは吉松さんご自身のことをお伺いしても良いでしょうか。

 1987年生まれで、京都大学卒業後、そのまま京大の大学院に進学しました。学振の特別研究員に採用されて、博士課程2回生の秋からパリ西大学に留学しました。そこで修士課程を終えて、今はフランス政府給費留学生として引き続きパリ西大学の博士課程に所属しています。専門はフランス思想と現代哲学です。

 ご専門については、どういう経緯で決められたのでしょうか。

 遡ると15年くらい前になります。高校1年生のときに現代文の宿題をしていて夜更かしをしているときに気分転換にテレビをつけてみたところ、フジテレビ系列の『お厚いのがお好き?』という、身近なもので哲学書を解説する番組がやっていました。確かそのとき見たのはソシュールの『一般言語学講義』の回だったと思います。それで面白いな、と思い当初は大学に行ったらソシュール言語学をやりたいなと思っていました。他にもドゥルーズガタリの『アンチオイディプス』の回があったのですが、放映後に高校の図書室で『アンチオイディプス』を見つけて開いてみたのですが、全くわからなくて(笑)。フロイト読まずにこれを読んだので、やれシュレーバー控訴院長だの、やれ〈それ(サ)〉だの言われても、という感じで。ただ、その後現代文で鷲田清一さんや、柄谷行人さん、野家啓一さん、大澤真幸さん、坂部恵さんといった方々の文章を読み、思想って面白いなと思ったのがきっかけでしたかね。それでも学部に入ったらその志もどこへやらという感じで遊んでしまい、もっと勉強しておけばよかったと今になって後悔しています。

 バランスだと思いますが、学生時代の楽しさもあると思いますので、遊ぶことも大事だと思います(笑)。国外への進学はすぐに決められたのですか? また準備というか、アドバイスは周囲からあったのでしょうか。語学は得意でしたか?

 そんなこんなで学部に入った頃から研究者を考えていたので留学についてはぼんやりと、博士課程のうちに行くのかな、と思っていました。ただ、当時はどのような先生がいるのかもわからずパリ第8大学やパリ第4大学のサイトを見ては、特に何も具体的なことが見えてこないまま、という感じでした。文学部の仏文科にも出入りしていたのですが、修士課程のときに仏文の仲の良い先輩から後にパリでの指導教官となるペーター・サンディさん(注・現ブラウン大学比較文学科教授)を紹介してもらい、それから2年間かけてペーターさんと留学の打ち合わせなどをしました。
 語学については受験英語は得意だったのですが、大学受験のときからリスニングは苦手で、フランス語でも聞き取りは苦手でした。そのため留学直前の半年くらいは、France2という国営放送のサイトでニュース映像を見て内容を毎日まとめたり、France Cultureというフランスのインターネットラジオで哲学の講座を聞いたり、あるいはよくCMで見るような聞き流しも、しないよりはましと思い暇を見つけてはBGM代わりにフランス語の映像やラジオを流したりと泥臭くやりました。語学が得意でなくてもしっかり努力すればその言語のリズムが染みついてきて、なんとかやっていける程度にはなれると思います。あとはフランスに来たら好むと好まざるにかかわらずフランス語にさらされ続けるので、フランス語の伸びは日本にいたとき以上のものになると思います。

 ありがとうございました。さて、デリダ・トゥデイの報告に関してですが、まずこの団体についてご紹介頂けますでしょうか。ホームページ(http://derridatoday.com.au/)を見ると、オーストラリアで二人の研究者が2008年に設立、マッコーリー大学のシンポジウムから始まったとあります。ジャーナルも発行しているようですが、これはいわゆる学会なのでしょうか。

 そうですね、学会の定義によると思います。日本だと会員制で、年会費を払ってそれがジャーナル出版や会場費、人件費に当てられるので当日の参加費が低く抑えられています。それに対しデリダ・トゥデイは会員制ではないため、毎回参加者が日本円で1〜2万円程度の参加費を払って参加します。フランスでもコロキウムやカンファレンスはそのたびごとにテーマ別で形成されるので、会員制を取らないことがほとんどだと思います。ただ欧米式だとより開かれた学会になる反面、一回参加して参加者とそれ限り会わないということも起こりうるので、会員制は一概に良し悪しは言えません。そういう意味で、日本における学会と持つ意味が異なっている気もします。

そもそも日本とは学術団体や発表の場の主な運営方法が異なるということですね。参考までに、デリダの他の主要な学会があれば教えてください。また、海外へいきなり参加は難しいと思うので、国内でデリダの研究にアクセスしたい場合、例えばこれから勉強を考えている学部生・修士生、研究に興味のある一般の方が参加(見学)できる学会や発表の場があれば教えてください。

 国外を見ても、デリダをめぐってこのように定期的にカンファレンスを開くのはなかなかないですね。強いてあげるなら私が今参加しているパリでのデリダの読書会Lire Travailler Derridaくらいでしょうか。この団体は数年前にパリを中心にデリダを読む大学院生が立ち上げた団体で、年度ごとに読む本を決めて講読しています。今年度後半はLa carte postale所収の « Spéculer—sur Freud »を、今年度前半と昨年度は死刑論セミナー2つ、その前がGlas、さらにその前が『友愛のポリティックス』でした。私も先月« Spéculer »の第3節のレジュメを切りました。それでそれぞれの本を読み終えると研究集会を開き、メンバーの希望者が口頭発表をします。今年も6月末に死刑論のワークショップがありますね。
 それ以外は定期的なカンファレンスを開く団体は聞いたことがないですね。国内であれば発表者を公募する学会だと日仏哲学会や表象文化論学会、日本フランス語フランス文学会、日本哲学会あたりはたまにデリダについての発表を見ますね。日本現象学会や宗教哲学会でも場合によってはデリダについての発表があるかもしれません。国内外問わず著名な研究者の招待講演という形なら脱構築研究会がほぼ毎年何かしらのイベントをやっています。こちらも開かれた会なので、一般の方も聞きにいらっしゃることはできると思います。

吉松さんはこのカンファレンスに参加されるのは何回目でしょうか。またこの団体を知ったきっかけはなんでしょうか。

 参加は三度目、発表者としては二度目でした。デリダ・トゥデイは修士課程の頃に宮﨑裕助さん、西山雄二さんがカリフォルニア大学アーヴァイン校での大会の様子をtwitterで伝えているのを見て、いつか行ってみたいなと雲の上の世界のように思っていました。翌年に立命館にフランス人のヘーゲル研究者が講演にいらしたさいに、その方を日本に招いた西山さんから懇親会の席で「きみ、来年のデリダ・トゥデイ来ない? 来年ニューヨークなんだけど」と誘われ、とにかく様子だけ見に行こうと思い参加したのが始まりですかね。そのときはいわばお客さんとしての参加だったのですが、私が共訳を企画して昨年翻訳が出た『ラディカル無神論』(法政大学出版局)の著者のヘグルンドさんと直接お話しできたり、いま草稿調査を行っているデリダの講義録『生死〔La vie la mort〕』の存在を知れたりと、刺激を受けることができました。それでその次のロンドン大会は発表にアプライしてみようと思い立つにいたりました。

今回はどのような発表をされたのですか。

 まさしく『生死』講義のなかのある箇所でフランシス・ポンジュの『寓話』という詩を分析しているのですが、そこでの分析と他の著作でデリダがこの詩に対して行っている分析を比較し、デリダにおいて生命の起源という不可能な問いはいかに答えが与えられうるのか、という発表でした。パネルを組織し、立命館大学の亀井大輔先生、大阪大学日本学術振興会の小川歩人くんと3人での発表でした。

会場の反応はいかがでしたでしょうか。

 諸般の事情から発表の3週間くらい前に発表テーマを変更したので、終始綱渡り状態でした。それでも、この草稿の第一人者で、最近"Biodeconstruction"(SUNY PRESS)という本を上梓されたフランチェスコ・ヴィターレさんに発表後の昼食の席で「Très bien !」とお言葉をかけていただいたのと、初日の最初のパネルのなか30人程度の教室に立ち見が出るほどの聴衆で、のちに何人かの参加者から「発表面白かったよ!」と声をかけていただけたので、結果オーライという感じでしょうか。会場での質疑応答も小川くんを中心に白熱して、パネル全体としてもうまく行ったように思います。この試みに乗ってくれた亀井先生、小川くんには感謝です。

 他の方の発表で、面白かったものなどありますか?

 基調講演は大御所の発表だけあって聞き応えのあるものが多かったですが、特にド・ポール大学のエリザベス・ロッテンバーグさんの精神分析脱構築についてのご講演とベルリン芸術大学のアレクサンダー・ガルシア=デュットマンさんの差延についてのご講演は自分の研究テーマと近く、刺激的でした。公募発表だと先に言及したヴィターレさんのオートポイエーシスに関わるご発表、あと近々私も取り組みたいと思っている、デリダシャンタル・ムフの比較研究の発表などもあって、興味深く拝聴しました。

 その他に滞在全般において印象に残ったことなどあれば教えてください。

 滞在全般ですか。そうですね、モントリオールケベックの中心地ということもありフランス語が通じる地域だったのが印象的でした。道の看板なんかもフランス語で。私は英語よりかはフランス語の方がまだ話したり聞いたりができるのでありがたかったです。そのような街での開催とあって今回のデリダ・トゥデイは初めての英仏バイリンガル開催でした。それもあってヨーロッパからの参加者の顔ぶれが変わった気がします。次回はマルセイユでの開催ですし、このバイリンガル開催は今後も続けていってほしいですが、開催がフランス語圏に限定されるのでその次以降は難しいかもしれません。
 最後にデリダ・トゥデイはデリダの専門家だけでなく、デリダ以外の研究をしている人でもデリダ(もしくは他の脱構築の思想家たち)を参照する発表をして歓迎されています。また、修士課程や博士課程の早い年次の学生も多く発表者として参加しています。ですので日本の皆さまも、少しでも脱構築思想に興味があれば参加を考えてみてください。きっと新たな発見に恵まれた4日間になると思います。

ありがとうございました!

インタビュアー 小林えみ

吉松覚(よしまつ・さとる) Université Paris Ouest, Nanterre la Défense博士課程在籍。1987年生まれ。翻訳に『ラディカル無神論 デリダと生の時間』(法政大学出版局、2017年)等、主な論文に«The Time is out of Joint »--sur l'imminence de la justice chez Derrida, 2016 等。
リサーチマップ

吉松さん専門分野で初学者にお薦めの本3冊

1:高橋哲哉デリダ 脱構築と正義』、講談社学術文庫、2015年
2:マーティン・ヘグルンド『ラディカル無神論 デリダと生の時間』吉松覚・島田貴史・松田智裕訳、法政大学出版局、2017年
以上二つを読解すればデリダがどのような問題意識を持った思想家かある程度つかめると思います。東浩紀さんの『存在論的、郵便的』(新潮社)も素晴らしい著作であることに間違いなのですが、『批評空間』をはじめとした日本の批評の磁場を知っていないと難しいかもしれないと思い、今回は泣く泣く推薦書には含めませんでした。『存在論的、郵便的』は上記二冊に加えて宮﨑裕助さんの『判断と崇高 カント美学のポリティクス』(知泉書館)を読んでから読むと面白い発見があるのではないかと思います。
3:ジャック・デリダ差延」、『哲学の余白 上』、高橋允昭・藤本一勇訳、法政大学出版局、2007年
上にあげた2(+2)冊が優れたデリダ研究書であることは論を俟たないことですが、やはりデリダ本人のテクストを読まなければ意味がありません。「差延」論文はデリダ自身の思想のさまざまなモチーフが紙背にひそんでいます。ニーチェハイデガーフロイトレヴィナスヘーゲルソシュールら、デリダのみならず現代思想に影響を与えた思想家が言及され、「差延」、「間隔化」、「イメーヌ」、「パルマコン」、「エコノミー」、「痕跡」などデリダにおける主要な概念も多く論じられています。短いテクストながらもこれだけの要素があるので、私自身未だに解釈がしきれない箇所もあります。それでもデリダの思考がもつリズムや息遣いを、この圧倒的な情報量と熱量を含んだテクストのうちに感じてもらえたら、きっとデリダをさらに読みたくなっていることと思います。


#Marx200 リポート/江原慶氏/若手研究者が国際カンファレンスに参加する意義

ドイツでマルクス生誕200年を記念したカンファレンス「MARX200: Politics - Theory - Socialism」が開催されました。単著『資本主義的市場と恐慌の理論』(日本経済評論社)を4月に上梓されたばかりの若手研究者、江原慶さんにカンファレンスの様子とご自身の研究などについてお伺いしました。

 ベルリンのカンファレンスに参加されたそうですね。いかがでしたか。どのようなカンファレンスだったのでしょうか。

 日本ではあまり宣伝されていませんでしたが、大阪市立大学の斎藤幸平さんから教えてもらって参加することになりました。最初は渋っていたのですが、海外のマルクス関連シンポジウムは日本のとは雰囲気が全然違う、実際に行ってみるべきだと熱弁されて、説得されてしまいました。
 行ってみると、確かに違う雰囲気を感じました。何よりまず、参加者は900人以上と非常に盛況で、その上参加応募が殺到して応募を締め切らざるを得なかったと、主催者の方が言っていました。実際、マイケル・ハートのような有名人が登壇するメインイベントだけでなく、分科会でも立ち見が出るほどでした。私が報告した”Marx in Japan”セッションにも、用意された椅子に座り切れない人がいました。日本からの参加者は斎藤さん、駒澤大学の明石英人さんと私の3人だけでしたが、対照的と言っていいほど、海外での日本への関心は高いと感じました。
 参加者の年齢層はかなり若くて、かつジェンダーバランスがとれています。報告のバラエティも豊富で、日本だとどうしても経済学が中心になりますが、このドイツのカンファレンスでは、環境問題から実際の左派的な活動に至るまで、様々なテーマが扱われていました。経済学プロパーのセッションはむしろ人気がなくて、経済学をやっている人間としては少し寂しい思いがするとともに、もっと経済学の意義を伝えていかなければならないという気になりました。

 にぎやかな様子が目に浮かぶようです! 江原さんは、今までもこうした海外のカンファレンスへの参加経験があるのでしょうか。

 私は割と伝統的な方式の国内培養型でして、海外活動の実績はほとんどありません。去年、World Association for Political Economyという学会のモスクワ大会に参加したのが初めてで、今回が2回目です。それまでは、英語で報告したいときは、経済理論学会など、国内で開催される学会の英語セッションとかでやってました。

 なるほど。後になって申し訳ないのですが、江原さんの経歴を教えて頂けますか。

 1987年生まれで、東京大学経済学部を卒業した後、そのまま同じ大学の経済学研究科に進学しました。博士号を取った後は、1年間アルバイトなどをやって、その後母校の助教に採用してもらいました。しかしそれは有期雇用だったので、就活を続けまして、昨年から大分大学経済学部で働けることになりました。
 マルクスに関わることになったのは、学部2年生の終わり頃です。当時の東大経済学部では、2年生の冬学期に駒場で「専門1」という基礎科目を一通り履修するのですが、そのとき一番成績が悪かったのが「経済原論」(マルクス経済学の理論科目)で、それがもっとちゃんと勉強してみようという動機になりました。
 もっとも私が専門にしているのは厳密にはマルクス研究ではなくて、『資本論』を基礎としながら、そこから作り上げられてきた経済学の理論研究です。マルクス経済学というと、マルクスの思想や理論を扱っていると思われがちですし、それは広い意味では別に間違っていないのですが、「経済学」の方にウェイトがあるというか。

 マルクス研究は、マルクスの思想全般について、マルクス経済学研究は、その中でも経済学に特化しての研究ということでしょうか。

 この辺りの区別には踏み込むとヤブヘビになるのであまり深入りしたくないのですが(笑)、どちらかがどちらを包含するといった関係ではなく、基本的に別のアプローチなのだと思います。今回の滞在中に斎藤さんがベルリンフィルに誘ってくださったんですが、そのさい、楽譜を交響曲に起こすように、我々はマルクスのテキストから意味を引き出して論文を書くんだといった主旨で、斎藤さんがマルクス研究をフィルハーモニーにたとえてたんですね。私は音楽はさっぱりですが、敢えてそれに即して言うなら、マルクス経済学の研究にはそういう意味での楽譜はなくて、即興のジャズのような音楽にたとえられるのかもしれません。
 ただ、マルクス経済学もマルクスを基礎としている以上、マルクス研究をないがしろにしてよい道理はないので、門外漢ながら眺めて勉強させてもらっている、といった感じです。

 ありがとうございます。カンファレンスに話を戻しますね。今回はドイツが会場でしたが、言語は何が使われていたのでしょうか。

 ドイツ語が中心のカンファレンスでしたが、英語で聞けるセッションが必ずどこかで行われていて、非ドイツ語話者も退屈しないよう配慮されていました。大きめの会場ではドイツ語と英語の同時通訳が準備されていました。

 江原さんは、英語は学会で問題なく使用できるレベルということですよね。少し話がそれますが、日本は英語教育についての議論が耐えません。実際に長く勉強されていて、読み書きに不自由がない方でも聞き取りと発話は苦手、という場合もあります。江原さんはどのように勉強されたのでしょうか。また、ドイツ語はいかがでしょうか。

 あまり特別なことはしていませんが、英語の勉強はずっと好きでした。駅前留学をのぞき(笑)、留学経験はありません。中学3年から高校1年にかけて親の転勤で北京に1年間いて、インターナショナルスクールに通っていたので、そこでの授業は全て英語でした。ちょうどSARSが流行った時期で、休校になったので、100日くらいしか通いませんでしたが。
 ドイツ語は全くからきしです。マルクスの著作の原書に当たらないといけないときは、英語版と日本語版と独英辞典を全部使って読みます。

 江原さんご自身のお話をお伺いしてきましたが、ご存じの範囲で、同世代の研究者の方の国内での研究や海外の研究との接触の状況について教えてください。ただ、分野によっても傾向がことなると思いますので、ご専門の周辺のあたりについてということになると思いますが、いかがでしょうか。

 同世代の研究者について、正直私はよく知らないのです。大学院在籍時も、同期は一人もいませんでしたし。そういう狭い範囲の知識しかありませんが、若い国内の研究者が海外で活動しようと思うと、全般的にハードルが高くて、それに積極的な人は多くないという印象です。マルクス経済学には国内の膨大な先行研究があって、学生のときにはまずそれを消化しなければなりません。大学院を終えた後、アカデミアで就職せずに海外に行くルートは限られており、ノウハウもほとんど継承されていません。就職できたらできたで、大学の仕事は日増しに忙しくなってきており、海外での研究活動まで手が回らないということになりがちです。要するに、相当やる気を出さないといけなくて、それ自体が大きな障壁になっていると思います。
 しかし、海外との交流は以前にも増して重要になってきています。グローバル化は事実として進行していて、したがって資本主義分析もグローバルになされなければなりません。それにあたって、海外の人々がどういうことに関心を持っているのか知ることは有用です。また、前に触れたように日本に対する海外の関心は高いので、それにこちらから応えてあげる必要もありますよね。
 もとより、海外での仕事には、日本でのそれとはまた違った楽しみがあります。今回、日本の帝国主義論について話したところ、参加者からはインドやアメリカといった、各地の議論について聞くことができました。単純に、異国の空気を吸いに行けるというだけでも、海外に行ってみる価値があります。ソ連崩壊後に育った私たちにとっては特に、「ベルリンの壁」や東西ベルリンの街並みの違いを実際に目にするのとしないのとでは、冷戦期に対するリアリティがやっぱり違ってくるでしょう。ベルリンフィルに行ったりとか(笑)、そういうアフター5のエンタテインメントも魅力的ですし、必要です。海外活動のハードルは確かに高いのですが、経験をシェアして助け合いながら、なるべく多くの 日本の研究者とそれを乗り越えていければと思っています。

 ありがとうございます。ただ海外にでればよいわけではもちろんありませんが、優秀な研究者が国際的な研究の場に参加することで得ることが大きいことがよくわかりました。ポスドク問題や人文学・社会科学研究の軽視など、国内の研究状況は決して恵まれてるとはいえない状況の中で、皆さんががんばっておられること、そして江原さんたちのような研究者がでることが素晴らしいなと思っています。蛇足ですが「厳しくても良い研究者でるなら今の環境でもOK」ということではなく改善は必要だと思っています。私はアカデミック内の人間ではないので、それはステークホルダーとして協力できることに取り組みたいと思っています。
 最後に江原さんの今後の研究の展望など教えてください。

 大学院のときからやっていた研究は、本の出版でとりあえず一区切りになるので、次は貨幣論とか、『資本論』でいうと冒頭部分にあたる領域をやりたいと思っています。マルクス経済学でずっと問題になっている、不換制を含めた原理的な貨幣の理論です。仮想通貨の登場などを受けて、貨幣制度の構造も揺さぶられているので、その辺りの現実を展望できるような抽象理論を考えたいです。
 あとはこれまで書いたものを、英語でもう一回考え直して、海外展開をさらに充実させていきたいと考えています。その過程でどこがうまく通じないのか、あるいはどこが煮詰まっていないのか、新しい問題が見えてくると思うので、それをきっかけにして研究の中身を向上させていこうと思います。

ありがとうございました!

インタビュアー 小林えみ

江原慶(えはら・けい) 大分大学経済学部准教授。1987年生まれ。東京大学大学院経済学研究科博士課程修了(博士(経済学))、東京大学大学院経済学研究科助教等を経て現職。著書に『資本主義的市場と恐慌の理論』(2018年、日本経済評論社)。



マルクス生誕200周年コメント集「いま、マルクスを読む意味」(3) #Marx200

掲載は氏名の50音順です。

編集者 林 陽一(はやし・よういち)
「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」。
あまりにも有名なこの句から始まる『共産党宣言』を著したとき、マルクスは29歳、エングルスは27歳の若者であった。
歴史や社会の仕組みを、丸ごと解き明かそうとするその情熱と、思想的スケールの大きさには、ただただ圧倒されるばかりである。
マルクス主義なんてうさん臭い」「今さら役に立たない」などと斬って捨てるのは簡単だ。しかし、そもそも「役に立つ・立たない」という基準でマルクスを測ることが間違っている。彼の言葉は紛れもなく「世界を変えた言葉」であり、人類にとっての世界遺産なのである。モン・サン・ミシェル万里の長城を観光するのとまったく同じように、私たちはマルクスを「体験」すべきだと思う。
 長大な主著『資本論』に臆してしまう人には、比較的読みやすい『共産党宣言』や『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』を推す。

法政大学経済学部 原 伸子(はら・のぶこ)
マルクスからフェミニズムへ:「導きの糸」としての経済学批判」
 私の研究者としての出発点は、資本論形史であり、とくに1861年から63年に執筆された「23冊のノート」でした。当時のソ連の雑誌『経済の諸問題』や『哲学の諸問題』は、新MEGAに含まれる『資本論』草稿、とくに第1部「資本の生産過程」の相対的剰余価値論が現行『資本論』より約100ページも分量が多いことを明らかにしていました。私は、ドイツ語版より先に出版されるロシア語版『マル・エン著作集』第47巻を読むために、さらにロシア語の勉強を続け、修士課程1年の夏休みに第47巻を読了しました。1861−63年草稿には、『剰余価値学説史』として知られる当時の経済学説の徹底的な批判と、『資本論』に結実する経済学草稿がともに含まれています。マルクスの「経済学批判」の方法は、私にとっては、現代と対峙するための方法です。現在、私がテーマとしている「フェミニスト経済学」の研究もまた、ケアの理論の構築にさいしての、現在の主流派経済学批判の「導きの糸」になっています。

ジュンク堂書店難波店店長 福嶋 聡(ふくしま・あきら)
 書店の店頭で、「AI(人工知能)」の文字が踊る。本の帯には「AIは、早晩全人類の能力を上回る」との託宣が見える。そして「人間の仕事は、すべてAIに奪われる」と。
 ぼくが、かつて第一巻の半分くらいで挫折したマルクスの『資本論』を、再び最初から読み始めたのは、その書店風景に震撼した時だった。朧げな記憶と、マルクス経済学についての断片的な知識が、ぼくに次のような疑問を抱かせたのだ。
 “剰余価値を生み出す労働者を機械に代替させて、資本主義が、現在の経済構造が維持できるのか?”
 マルクスが資本主義の秘密を徹底的に洗い出す仕事にその一生を費やしたのは、機械が労働者になり替わり、富が一部の資本家にどんどん集中していく、産業革命後の時代においてであった。今日、同型のプロセスが、凄まじいスピードで進行しているのではないか?ぼくたちに身近な「出版不況」も、マルクスが同時代に発見した「恐慌」と同質だ。
 マルクスは、古くて、新しい。

NPO法人ほっとプラス代表理事 藤田孝典(ふじた・たかのり)
 2018年の現代日本でもワーキングプアを中心とした貧困、格差が社会的な課題となっています。それに伴い、貧困を表す言葉が言論でも増えています。ホームレス、ネットカフェ難民、子どもの貧困、女性の貧困、下流老人…。さらに貧困や格差を表す数字も深刻です。相対的貧困率は15,6%になり(厚生労働省2015)、ワーキングプアの割合も13,3%と働いている人々の8人に1人は貧困です(OECD2016)。だからこそ、生活相談や労働相談も後を絶ちません。要するに「働いても貧困や生活苦から抜け出せない」「8時間働いても普通の暮らしが送り続けられない」という事態が社会に広がっているのです。
 マルクスはこれらの人々や労働者が陥る事態を構造的に世界で初めて分析し、資本主義の宿命に立ち向かい、変革していくことを行動でも示してくれた人でした。私たちは残念ながら、今すぐにこの資本主義体制から逃れることはできません。資本主義とはいかなる欠陥や暴力を抱えているのか、生きていくうえでマルクスに触れることは必須だと思います。少なくともわたし自身はマルクスから多くの知見や勇気を得ています。一緒にマルクスと社会を探求してください。

ヨーク大学准教授 Marcello Musto(マルチェロ・ムスト)
The MEGA² make it possible to say that, of the biggest authors of political and economic thought, Marx is the one whose profile has changed the most in recent years. Some recently published volumes of this edition highlighted that Marx was widely interested in several other topics that people often ignore when they talk about him. Among them there are the potential of technology, the critique of nationalism, the search for collective forms of ownership not related to state control, and the need for individual freedom in contemporary society: all fundamental issues of our times.
Research advances suggest that the renewal in the interpretation of Marx’s thought is a phenomenon destined to continue. He is not at all an author about whom everything has already been said or written, despite frequent claims to the contrary. Many sides of Marx remain to be explored.
Moreover, returning to Marx is not only still indispensable to understand the dynamics of capitalism. His work is also a very useful tool that provides a rigorous examination addressing why previous socio-economical experiments to replace capitalism with another mode of production failed. Many of those who will be reading his books today, once again or for the first time, will observe that many of Marx’s analyses are more topical today than they have ever been.
 MEGAのおかげで、偉大なる政治思想および経済思想家のなかでも、マルクスは近年その人物像がもっとも変わった一人だといえるだろう。なかでも最近刊行された数巻は、マルクスについて語る際、しばしば無視されてきたような数々のテーマについて、マルクスが広く関心を寄せていたことを明らかにしている。それらのテーマのなかには、テクノロジーのポテンシャルやナショナリズムへの批判、国家統制とは結びつかない共同的な形態の所有の探究、そして現代社会における個人の自由の必要など、私たちの時代のあらゆる重要問題がある。
 研究の進展が示唆しているのは、マルクスの思想解釈の刷新は、これからも続いていく現象であるということだ。彼は、頻繁に反論がなされてきたにもかかわらず、これまで論じられてきたことに尽きるような著作家ではないのである。
 さらに、マルクスへの回帰は、資本主義のダイナミズムを理解するのにいまだ不可欠であるに留まらない。彼の仕事はまた、資本主義を別の生産様式に置き換えようとするこれまでの社会経済的な試みが失敗したのはなぜかを問う、厳密な試験を与える非常に有用なツールでもある。今日、彼の著作を読もうとする多くの人々は、かつてマルクスを読んだことがある人であれ、初めて読むのであれ、マルクスの分析の多くがかつてなく時節に適しているのに気づくことだろう。

立命館大学専門研究員 百木 漠(ももき・ばく)
 マルクスの偉大さは資本主義の本質をずばりと言い当てたことにある。すなわち、資本とは無限に自己増殖する価値の運動(G−W−G')であり、資本主義とはそのような資本を中心にして形成される経済−社会のあり方である、と。一定の貨幣(G)を労働力という特殊な商品(W)へ投資し、その労働力が生み出す剰余価値によって貨幣の増殖(G')が成し遂げられる。この分析は、今日の資本主義にもそのまま妥当するものであり、全く古びていない。
 こうしたマルクスの洞察は、われわれに資本主義の〈外〉に出て思考することを可能にしてくれる。通常の経済学は、資本主義の内部においていかに最善の状態を実現するか、を考える。マルクスは違う。そもそも資本主義というシステムそれ自体を疑い、問い直そうとする。資本主義とはそもそも何なのか、それは果たして普遍的な経済−社会の仕組みなのかと。その思考がさらに、資本主義とは別の経済−社会への構想を可能にするのだ。

埼玉大学大学院人文社会科学研究科准教授 結城剛志(ゆうき・つよし)
「萎縮する社会の中で」

いま、大学という組織の中にいると、やれ組織改革だ、入試改革だと、騒がしい。大人たちはずいぶんと自分たちがやってきた教育に自信がないようである。では、大学の組織や制度はなぜ変えなければならないのだろうか。直接には、国が言ったから、あるいは世間がそう言っているから、というものである。驚くなかれ、紛れもなくそれが理由である。
 私がマルクスから学んだことは「根本的な正しさとは何か」を問う姿勢である。たしかに、国が言ったことは事実だし、世間さまもそのように仰るのであろう。しかしそこに正しさはあるのだろうか。大学は国から税金をもらっている以上、国に対して何かしらの言い訳をしなければならない。国は国民に対して何かをしているという感じを出さなければならない。言い訳や釈明のための演出に追われ、教育そのものが議論されることはなくなっている。
 朝日新聞に掲載された「火垂るの墓」(高畑勲監督)に関する記事も印象的である。「我慢しろ、現実を見ろ」。生きるためには屈しなければならない。それが現実だ、と。世間はそう言うのだそうだ。たしかに、生きるだけならそれでいい。自分を曲げて生きればいい。しかし、死んで正しさを守る道もある。少なくとも、清太と節子は自由だった。
 マルクスは根本的な正しさを求めた。当時の権威たる国と王、教会と神学、社会主義と経済学を、生活の糧を失うことを恐れずに批判した。そこに残ったのは、ただ正しさだけだった。ばかな生き方と言われるかもしれないし、そんな英雄的な生き方を誰もができるわけではないが、清冽さ・凄烈さに人は惹かれる。残るのはそういったものである。

マサチューセッツ大学アマースト校経済学部准教授 吉原直毅(よしはら・なおき)
 人類文明と地球環境のサステイナビリティ問題に直面している現代において、マルクスを読む意義の1つは、市場制度と資本制経済システムを概念的に区別する視座を学ぶことであろう。市場的交換行為や社会的分業の生成は有史以来の観察事象であるが、市場原理が共同体的原理に優越して社会システムの一元的な支配的原理になるのは、資本制的社会のみである。近代リベラル思想や新古典派経済学は市場と資本制を同一視する事で、市場的交換行為や社会的分業の普遍性を資本制経済システムの普遍性へと錯視する理論体系を構成し、それが現代社会の支配的イデオロギーと化している。しかしマルクスに学ぶことによって、資本制的社会が歴史的な存在に過ぎず、現代の我々が囚われている認識や思考法自体が資本制下の固有な特性に過ぎないと再確認できる。それは現代世界の極端に進行した貧富の格差や、搾取および社会的・経済的抑圧、サステイナビリティ問題などの危機的事象に対しても、我々をして悲観主義に陥ることなく究極的には楽観主義的であり続けさせる知的源泉である。